|
フランス7月革命(フランスしちがつかくめい、)は、1830年7月27日から29日にフランスで起こった市民革命である。フランスでは栄光の三日間()とも言う。 これにより、1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。ウィーン体制により構築された正統主義は部分的に崩壊し、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位に就いた。その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせた。 == 経緯 == 1815年の王政復古により王位に就いたルイ18世は、フランス革命による成果を全く無視して、時代錯誤もはなはだしい反動的な政治を行った。この復古王政による政権は、アンシャン・レジームよろしく貴族や聖職者を優遇する政策をとり、市民たるブルジョワジーの不満は当然高まることになった。フランスはあたかも革命以前の状態に逆行してしまったようであり、ルイの後を継いだ弟シャルル10世も言論の弾圧、旧亡命貴族の保護の強化などを始めた。とりわけ、旧貴族がフランス革命の際に被害を受けたの代償のために10億フランの資金を国庫負担にする法律の制定は、市民階級の不満を高めた。 シャルル10世は国内の不満をそらす目的で、1830年7月にアルジェリア侵略を始めた(これが1960年代まで続くフランス領アルジェリア植民地の端緒となる)。それでも国内の不満は治まらず、ついには自由主義者が大きな勢力を持つに至った議会を強制的に解散させ、次の選挙における大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発したが(七月勅令)、これは火に油を注ぐ結果となった。 7月27日、学生、労働者を中心にしたパリの民衆は、三色旗を翻して街頭にバリケードを築き始めた。シャルル10世は郊外のサン=クルー宮殿にいて楽観視していたが、パリで市街戦が始まると、鎮圧軍に戦意はなくじりじりと後退して、チュイルリー宮殿、市庁舎を相次いで占領された。7月28日、反政府派の指導者たちは、銀行家ジャック・ラフィット邸に集まって司令部を設置した。7月29日、スイス人傭兵の守るルーブル宮殿が民衆の襲撃によって陥落し、時計台に三色旗がはためいた。国王は驚き、七月勅令の破棄と内閣総辞職を決めたが、時すでに遅かった。 事態収拾はラフィットの主導のもとに行われた。国民の偶像ラファイエット将軍が担ぎ出された。7月31日、市庁舎のバルコニーにオルレアン公ルイ・フィリップがラファイエット将軍とともに姿を現し、民衆の歓呼の声に迎えられた。8月2日、ギロチンを怖れる国王シャルル10世は退位し、ランブイエ城からオーストリアに亡命した。後継政府には共和派の反対を押して、「国民王」ルイ・フィリップが立った。ここにフランスは立憲君主制に移行した(7月王政)。ラフィットは首相に就任した。 ルイ・フィリップは別名「株屋の王」であり「ブルジョワの王」であったため、市民たるブルジョワジーの不満は急速に解消されていった。ヴィクトル・ユーゴーによれば「フィリップ王はあらゆる階級の言葉に通じ、それを常に話していた。最もよくブルジョワ(中流社会)を代表した人物であったが、また一方でそれより抜きん出て万事にそれよりも優れていた」という。国王は自由主義と立憲王制を採用し、一定の成果を収めることに成功した。しかし制限選挙が維持され、革命の主体勢力であったプロレタリアートは再びないがしろにされ、不満をためていった。以後は、階級的意識に次第に目覚めていく労働者や農民の階級闘争へと様変わりし、18年後にルイ・フィリップはその報いを受けることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランス7月革命」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 July Revolution 」があります。 スポンサード リンク
|