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万俟醜奴(ぼくき しゅうど、生年不詳 - 530年)は、北魏の反乱指導者。本貫は高平鎮。 == 経歴 == 524年(正光5年)、胡琛に従って、高平の反乱に参加した。525年(孝昌元年)4月、宿勤明達とともに北魏の涇州に進攻した。526年(孝昌2年)9月、胡琛が殺害されると、高平の反乱軍の指揮権を引き継いだ。528年(建義元年)7月、高平で皇帝を称し、百官を置いた。529年(永安2年)9月、東秦州を攻め落とし、刺史の高子朗を殺害した。530年(永安3年)3月、大行台の尉遅菩薩を派遣して岐州を攻めさせたが、北魏の大都督の賀抜岳や可朱渾元らに敗れた。4月、北魏の雍州刺史の爾朱天光に敗れて、平涼の長平坑で捕らえられ、洛陽に送られて斬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万俟醜奴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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