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万里小路冬房[までのこうじ ふゆふさ]
万里小路 冬房(までのこうじ ふゆふさ)は、室町時代中期の公卿。内大臣万里小路時房の子。公家の身でありながら、幼年より仏教への帰依が深く〔『応仁略記』下「公家仁所々に暫住之事」〕、応仁の乱を機に出家して、最期は補陀落渡海を遂げた。初名は成房。
==経歴== 永享年間に叙爵された後、右兵衛佐・弁官・五位蔵人を歴任。文安6年(1449年)3月蔵人頭を兼ね、宝徳2年(1450年)4月参議に任じられて公卿となる。同3年(1451年)従三位権中納言に叙任され、武家伝奏を兼務。享徳元年(1452年)8月正三位、康正元年(1455年)8月従二位に進む。長禄2年(1458年)大宰権帥を兼ね、権大納言に任じられたが、寛正5年(1464年)1月に辞退。翌年(1465年)1月正二位に叙され、12月後土御門天皇即位礼の伝奏を務めた。 応仁元年(1467年)9月准大臣宣下を蒙り、従一位に叙されるも、10月後花園上皇の落飾に殉じて出家。法名を弘房(浄土宗)または弘円(真言宗)と号した。予てから勅許を得て東寺に入壇していて、応仁の乱で在所を焼かれた際は比叡山北谷に隠棲したという。出家後の足取りは不明だが、何の因果か「菩提心」を発して、文明7年(1475年)11月22日〔『続史愚抄』による。『尊卑分脈』は10年後の文明17年(1485年)12月21日とするが、『実隆公記』同8年3月28日条に「菩提院儀同三司冬房、詣補陀落山、去年十月之比事云々」とあること、また、『親長卿記』同年6月17日条には養子賢房が除服を申し出たとの記事が見えることから、冬房の渡海は文明7年が史実であると考えられる。〕紀伊熊野浦から補陀落渡海に出航した。享年53。 万里小路家では冬房の出家に先立ち、甘露寺家から春房を迎えていたが、文明3年(1471年)に突如出奔したため、改めて勧修寺家から賢房を養子に迎えて存続させている〔今泉淑夫「江南院龍霄」『東語西話』(吉川弘文館、1994年) ISBN 978-4-642-07428-5〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万里小路冬房」の詳細全文を読む
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