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万里小路局(までのこうじのつぼね、文化10年(1813年) - 明治11年(1878年)5月7日)は、江戸時代後期から幕末の大奥女中(上臈御年寄)。父は大納言・池尻暉房〔「木更津市史」p279〕。名は壽賀。 江戸幕府11代将軍・徳川家斉から14代将軍・徳川家茂までの4代に渡り大奥の最高位である筆頭老女を務めた〔。 == 生涯 == === 大奥時代 === 文化10年(1813年)、大納言・池尻暉房の末娘として京都にて生まれる〔墓所の長楽寺には「大姉ハ京都池尻前大納言興房ノ末女、文化十癸茜、誕也。」と池尻興房の娘であると記されているが、大納言・池尻暉房の誤りと考える。〕。 天保3年(1832年)、後に江戸幕府13代将軍となる徳川家定の正室として輿入れした当時8歳の鷹司任子の世話役として江戸へ出仕。天保7年(1836年)、11代将軍・徳川家斉の寵臣である林忠英が宿元となり、家斉の将軍付小上臈として大奥に入る。その後、徳川家慶が12代将軍に就任して以降、将軍付上臈御年寄に昇格、万里小路と名を改める〔小島茂男『幕末維新期における関東譜代藩の研究』(1975年、明徳出版社)〕。この頃の大奥では、同じく上臈御年寄の姉小路が権力を握っていたとされるが、実際の筆頭老女は万里小路であった。 13代将軍・徳川家定が死去した安政5年(1858年)頃に大奥から退き桜田御用屋敷へ移る。しかし、14代将軍・徳川家茂の御世には、再び大奥への出仕を命じられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万里小路局」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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