翻訳と辞書 |
三上藩[みかみはん] 三上藩(みかみはん)は、現在の滋賀県野洲市三上に存在した藩。藩庁は三上陣屋(城主格)〔二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(394ページ)〕。 == 藩史 == 藩主家は遠藤氏である。遠藤家は美濃郡上藩2万4000石を領していたが、元禄2年(1689年)に第4代藩主遠藤常春が謎の死を遂げると、これが家臣団を二分する家督騒動に発展。跡目を相続した遠藤常久も元禄6年(1693年)7歳の時に家臣によって毒殺されるに及び、ここに郡上藩遠藤家は無嗣改易となった。しかし藩祖・遠藤慶隆の功績が特に考慮された結果、時の将軍・徳川綱吉は側室・お伝の方の妹と旗本・白須正休の間にできた長男を、いったん遠藤家の遠縁にあたる美濃大垣新田藩1万石の藩主・戸田氏成の養子としたうえで、これを改めて遠藤家に入れて遠藤胤親と名乗らせ、この胤親に常陸・下野で都合1万石を与えた。こうして旧郡上藩遠藤家とはまったく無縁ながらも胤親が大名に取り立てられたことで、遠藤家は形ながらも家名存続を果たしたのである。この胤親が元禄11年(1698年)に近江四郡に移封となり、ここに三上藩が立藩した。 若年寄となった第5代藩主・遠藤胤統は、嘉永5年12月(1853年2月)、江戸城西の丸造営の功績を賞されて2000石の加増を受けた。幕末の万延元年(1860年)には城主格に格上げされている。胤統は文久3年(1863年)に隠居し、後を孫の遠藤胤城が継いだ。胤城は講武所奉行に任じられ、長州征伐などに活躍。徳川慶喜の代には奏者番に任じられて将軍側近となり、佐幕派としての立場を貫いた。しかしこのため、慶応4年(1868年)1月に新政府から朝敵と見なされて領地を召し上げられた。しかし同年5月には罪を許されて領地を戻され、翌年6月には三上藩知事に任じられた。胤城はその後明治3年(1870年)4月に藩庁を和泉国吉見に移したため、以後は吉見藩と呼ばれることとなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三上藩」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|