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三上 雄石(みかみ ゆうせき)は、聯珠(連珠)第二世永世名人。本名は、三上 義太郎(よしたろう)。 自由民権運動 に活躍すると共に、聖書を日本で最初に和訳するなど、出版事業にも成果をあげた 三上七十郎(しちじゅうろう)は三上雄石の叔父(父の実弟)にあたる。 == 概要 == 明治11年(1878年)11月8日、埼玉県志木町に生まれる。 上京し、芝区にて呉服商、麦商を営む中、同町内の将棋と聯珠の大家、井上義雄と知り合い、氏に師事して聯珠の研究に身を委ね、各所の競技会で好成績を収めて「鬼三上」の綽名を取る。 雄石という号は井上義雄が自らの「雄」一文字を入れて贈ったとされる〔 〕 。 髙橋清致、高山互楽らが東京聯珠社を起し、同社が聯珠段位を与えることとなったときに、四段を授かる。 高橋清致の聯珠界引退(明治42年12月)後、明治43年1月、東京聯珠社の社長が高山互楽となると主席理事に就任し、本業の麦商を廃業して、斯道に尽力する。 高山互楽の後援によって、磐井楽在、小日向梅軒らと共に斯界唯一の雑誌『聯珠新報』を発行し、数万人の読者を得る。〔三上義太郎(雄石), 『聯珠案内』, 聯珠新報社, 大正3年, 10頁〕〔三上雄石の逝去を伝える記事より〕。 明治43年6月の段位規定づくりに励むと共に、関西遠征(明治44年1月)による、その後の段位規定の改正(明治44年9月)、競技規定など、連珠界の基盤づくり・全国統一に貢献した〔三上義太郎(雄石), 『聯珠案内』, 聯珠新報社, 大正3年, 10頁〕。 明治45年に専門連珠家となってより、精力的に著作活動を進めて、多くの著作物を残す。(著書の項を参照)またその後、聯珠図書出版会を設立し、連珠の普及にさらに努めると共に、その技術を後世に伝えることに貢献した。 大正7年(1918年)10月27日、東京聯珠社の楼上で、聯珠の手合の審判を務めている最中に突如、手合を写し取る珠印を握ったまま倒れ、その日の内に自宅にて息を引き取った〔。 当時は父・母・妻・長男(13歳)・次男(4歳)・長女(17歳)・次女(9歳)を残したのであるが〔『聯珠新報』第109号, 聯珠新報社, 大正7年12月, 17頁〕、平成の時代になって、そのいずれもがもうこの世にはいない。 現在は故郷の埼玉県志木市にある菩提寺に、先祖、親族とともに眠っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三上雄石」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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