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三五公司マレー半島ゴム園群 : ウィキペディア日本語版 | 三五公司マレー半島ゴム園群[さんごこうしまれーはんとうごむえんぐん] 三五公司マレー半島ゴム園群(さんごこうしまれーはんとうごむえんぐん)においては、マレー半島においてアジア・太平洋戦争終結前まで、愛久澤直哉によって率いられた三五公司が経営していたゴム園群について説明する〔小林・野中(1985年)85ページ〕。三五公司のゴム園経営は、戦前の日本人ゴム園経営の草分け的存在であった〔華南銀行(1930年)〕。 == 設立までの経緯 == 三五公司の歴史は1902年(明治35年)に遡る。明治日本が最初に植民地化した台湾において、その当時の最も有利な輸出品は、樟脳であった〔。樟脳は、防虫・防臭剤や医薬品の原料となるのみならず、セルロイドやフィルムや無煙火薬等の製造原料であり、その生産は塩や阿片とともに台湾総督府の専売事業になっていた〔。ところが台湾海峡の対岸の福建省は豊かな樟脳の産地であり、厦門の港から樟脳が盛んに輸出されていた〔小林・野中(1985年)86ページ〕。福建省は、日清講和条約締結後に三国干渉を受けた日本が清国に対し欧米列強への不轄譲を約束させた地である。当時の台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平は、台湾の対岸政策の一環として福建省の樟脳市場の独占を目論んだ〔。1902年厦門において三五公司を設立し、頭山満配下の「豪傑連中」を集めて、三菱合資会社の社員愛久澤直哉を社長にした〔。三五公司は、樟脳原料採取のためという名目で福建省の樟樹という樟樹を伐採していき、すっかり伐採し尽くし、以後数十年間福建省は台湾総督府の樟脳専売にとって脅威ではなくなった〔小林・野中(1985年)87ページ〕。愛久澤のこの「献身的な」働きに報いるため、三菱が彼に「何かやりたいことはないか」と尋ねたところ、「今マレー半島でゴム園が発展しているので、それをやらせてくれ」と答えた〔。そこで三五公司は、1906年(明治39年)ジョホール王領ペンゲランにイギリス人が経営していた約200エーカーのゴム園を買収した〔。愛久澤らは、台湾を南進のための足がかりとして、シンガポール島を対岸に見るマレー半島東南端をその前線基地にして、「天下国家を取ると云ふ大した考へで、ジョホールなどは取ってしまはうと云ふ考へで」(森三郎『南洋資料』第440号)あった〔。愛久澤らの当時の発想は、詩人金子光晴著『マレー蘭印紀行』(金子が昭和3年から昭和7年にわたり異国放浪した結果の紀行文)に見てとれる。同書には、ジョホール州スリメダンの三五公司第二ゴム園において、三五公司創業以来山暮らしをしている支配人A氏が、金子に聞かせた話が書かれている〔金子(2004年)38ページ〕。 ところが愛久澤らが、シンガポールへ来て見ると、日本人の大部分は娼婦とその関係者で、ヨーロッパ人からもアジア人からも軽蔑されきっている〔。そこで愛久澤は、マレー半島東南端ペンゲランに渡り、そこに小高く突き出している初音山を開墾するため全山を伐採して乾燥させ、夜間一斉に火を放った〔。全山1200エーカーが真っ赤に燃えあがり、天を焦がし、シンガポールを望む海上をさながら真昼のように照らし出し、日本人を軽蔑していたヨーロッパ人、アジア人、日本人ともども驚かせた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三五公司マレー半島ゴム園群」の詳細全文を読む
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