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三井 辨雄(みつい わきお、1942年11月24日 ‐ )は、日本の政治家、薬剤師。青山会(樽床伸二グループ)代表世話人。 元衆議院議員(4期)、国土交通副大臣(菅第1次改造内閣・菅第2次改造内閣)、厚生労働大臣(第15代)などを歴任した。報道等では新字体で三井 弁雄(みつい わきお)の表記も用いられる。 == 来歴 == 北海道札幌市生まれ。北海高等学校、昭和薬科大学薬学部卒業。薬剤師免許を取得し、1967年登録。1975年、三井薬品株式会社を設立し、同社代表取締役に就任。その後医療法人交雄会の理事長に就任し、北海道内に3病院・2介護福祉施設を開設〔三井わきおのホームページ 〕。 経営者時代から自由民主党の羽田孜の知遇を得ており、1996年の第41回衆議院議員総選挙に羽田が当時所属していた新進党公認で北海道3区から出馬するが、石崎岳(自民党)、荒井聰(旧民主党)の後塵を拝し、得票数3位で落選する。新進党解党後、民主党に入党。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、選挙区調整により比例北海道ブロック単独で出馬し初当選(北海道3区からは荒井聰が出馬し、石崎岳を破り当選)。2003年の第43回衆議院議員総選挙では北海道2区に国替えし、自民党の吉川貴盛を破り当選した。2005年の第44回衆議院議員総選挙では吉川に約2,300票差まで詰め寄られるも振り切り、3選(吉川も比例復活)。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、自民党の吉川に比例復活も許さない大差で圧勝し、4選。当選後、民主党国会対策委員長代理に就任した。 2010年9月、菅第1次改造内閣で国土交通副大臣に任命される。同年10月、樽床伸二を中心に結成された「青山会」〔樽床伸二「樽床グループ(青山会 せいざんかい)発足」『たるとこ伸二 | 樽床レポート | 樽床グループ(青山会 せいざんかい)発足 』2010年10月10日。〕の代表世話人に就任した。2011年1月、菅第2次改造内閣で国土交通副大臣に再任。 同年6月1日、小沢一郎が菅内閣に対する不信任決議案への賛成を示唆し〔日テレNEWS24 2011年5月31日〕、これに同調して国土交通副大臣を辞任する意向を固める〔産経ニュース 2011年6月1日〕。同日の不信任案提出後、三井、東祥三、鈴木克昌、内山晃、樋高剛の5人が辞表を提出し、菅内閣不信任決議案に賛成する意向を示した〔日テレNEWS24 2011年6月1日〕〔東副大臣ら5氏が辞表提出=内閣不信任案に賛成へ、離党はせず 朝日新聞 2011年6月1日〕。この事態を受け、菅は東日本大震災への対応に目処がついた時点で退陣する考えを表明〔「菅首相、辞任の意向――『震災に一定のめどの段階で』」『asahi.com(朝日新聞社):菅首相、辞任の意向 「震災に一定のめどの段階で」 - 政治 』朝日新聞社、2011年6月2日。〕。これを受け、三井ら5人は翌2日の採決では反対票を投じた〔影山哲也「内閣不信任案:辞表提出の副大臣・政務官5人の慰留検討」『内閣不信任案:辞表提出の副大臣・政務官5人の慰留検討 - 毎日jp(毎日新聞) 』毎日新聞社、2011年6月2日。〕。翌3日、菅の慰留を受け辞意を撤回した〔asahi.com 2011年6月3日〕。 同年9月、野田内閣発足に伴い国土交通副大臣を退任し、民主党政策調査会長代理に就任。2012年6月、消費税増税を含む社会保障・税一体改革関連法案の採決では賛成票を投じ、小沢一郎ら反対派が民主党を離党して結成した国民の生活が第一には参加しなかった。 同年10月、野田第3次改造内閣の厚生労働大臣として初入閣。薬剤師免許保持者では初の厚生労働大臣。 同年12月、第46回衆議院議員総選挙にて自民党の吉川に敗北、重複立候補した比例北海道ブロックでも比例復活ならず落選。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三井辨雄」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wakio Mitsui 」があります。 スポンサード リンク
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