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三井 卯吉(みついのうきち、享和2年(1802年)? - 安政4年(1857年正月〔卯吉の生没年は不詳であったが、『坂田家御用日記』安政4年9月3日条から没年は安政4年正月と確定し、「敵討瓦版」に享年を56歳と記していることから生年は享和2年に推定される。髙橋(2013)、p.8(93)〕)は、江戸時代の博徒・目明し。甲州博徒の一人で、大天窓(おおかしら)と呼ばれた。 == 略歴 == 出自は不明であるが、『藤岡屋日記』文久3年(1863年)10月条〔『調査・研究報告6』Ⅰ - 7〕に拠れば甲府の出身であるという。「甲府の隠居」〔天田愚庵『東海遊侠伝』〕「三井恵助」〔『市川大門町誌』、p.594〕「猿屋勘助」〔村松梢風、『正伝清水の次郎長』(第九回)騒人社、1927年〕とも言われる。 『藤岡屋日記』に拠れば、ある時甲府で勤番による大規模な博奕場の手入れがあり、卯吉はそれを逃れるため江戸へ出奔して身を隠していたが、そこで役人との間につながりができ、甲府へ戻り目明しとして雇われることになったという。なお、『甲斐国志』巻百一「人物部付録第十」に拠れば甲府牢番は代々三井氏・藤曲氏が務め、三井氏は武田時代から牢番を務めたという。卯吉の弟三井健次郎は甲府牢番役であったといわれ、卯吉は刑吏・獄吏的な職務に明るいため目明しとして登用されたとも考えられている〔髙橋(2013)、p.4(97)〕。 甲府町年寄・坂田氏の『坂田家御用日記』(以下、『日記』)天保11年(1840年)4月18日条・嘉永3年(1850年)11月13日条の両年次には、甲斐国において卯吉に関係して多くのものが博打によって検挙・処罰されたことを記している。『日記』4月18日条に拠れば、卯吉は甲府城下・柳町三丁目(甲府市中央四丁目)の大店・幸十郎の裏土蔵に居を構え、賭博場として開放したという。天保9年(1838年)には卯吉宅に役人が踏み込み多数の博徒を捕縛しているが、この時の逮捕者のなかに卯吉の名は見られない。このことから、卯吉は目明しとして敵対する博徒の所在情報を役人に提供して捕縛させ、敵対する勢力を追い落としていたと考えられている。天保11年には甲府城下の80名程度が処罰されており、嘉永3年には処罰者は10名程度であるがその範囲が甲府盆地一帯に及んでおり、卯吉の勢力範囲が拡大していることが指摘される〔髙橋(2013)、p.6(95)〕。 卯吉の配下には甲府盆地東部に勢力を持っていた国分村の国分三蔵や勝沼の祐天仙之助がおり、市川大門村の鬼神喜之助・小天狗亀吉、竹居村の竹居安五郎・黒駒勝蔵らと敵対した。 卯吉は甲州街道沿いの柳町を中心に本拠を転々としていたが、『日記』安政4年(1857年)9月3日条〔『調査・研究報告6』Ⅰ - 4〕、『藤岡屋日記』、『東海遊侠伝』に拠れば、安政4年正月に敵対する市川大門の博徒・小天狗亀吉らに山田町の居宅へ踏み込まれ、斬殺されたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三井卯吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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