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豚松(ぶたまつ)〔東海遊侠伝 、山本鉄眉、近代デジタルライブラリー、国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。〕〔山本, p.145-156.〕〔村本, p.166-168.〕〔今川, p.167-169.〕〔今川, p.152.〕、村上元三の小説『次郎長三国志』に三保の豚松(みほのぶたまつ)として登場〔村上, p.5-42.〕、清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる三保の松五郎(みほのまつごろう、1840年前後 - 没年不詳)は、かつて実在した日本の侠客である〔〔清水次郎長の二十八人衆を知りたい 、国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。〕。本名・出生名等は伝えられていない〔。実際に隻眼・隻腕であったのは豚松であり、講談・浪曲・映画等に描かれる森の石松の設定は、豚松からの流用であるとされる〔〔〔森石松 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 正確な生年月日は不明であるが19世紀中ごろ、1840年前後の時期、遠江国有渡郡三保村(静岡県静岡市清水区三保)の漁師の家に生まれる〔。同村には駿河湾に臨む景勝地、三保の松原があり、清水湊(現在の静岡市清水区港町)はほど近かった〔三保松原 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕。平岡正明は「次郎長の父親が難船して八丈島に漂着したとき、豚松の父親もいっしょに漂流した組で、父親同士が友人」と書いている〔平岡, p.324.〕。次郎長の実父「雲不見の三右衛門」は清水湊の船持ち船頭であった。地元出身者を乾分に迎えない方針であった次郎長が、豚松を例外としたのは、双方の父親の関係によるという〔。 今川徳三は、清水湊に豚松が現れ「ふらふらしていた」ころには、すでに隻眼であったとする〔。喧嘩で顔を切られて眼球が飛び出し、あまりの形相に斬った人物は逃げ出したといい、自力で眼球を眼窩に填めて医者に行き、治療の間は『よしこの節』(『潮来節』の変種〔よしこの節 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕)を歌っていたと伝えられる〔。今川は、この説が、刈谷藩藩士・松本奎堂(1831年 - 1863年)が1848年(嘉永元年)に左眼を失明したときの有名なエピソードに酷似していることを指摘している〔〔松本奎堂 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕。 平岡正明によれば、1864年(元治元年)に起きた次郎長一家と平井一家二代目の雲風亀吉(平井亀吉、1828年 - 1893年)との2度の喧嘩を平井村の役といい、重傷を負ったのはこのときであるという〔。山本鉄眉(天田愚庵、1854年 - 1904年)が次郎長に聞き書きし、次郎長の生前に上梓した『東海遊侠伝』(1884年)には、第十三回『長五伝檄催大衆 豚松振勇負重創』(長五檄を伝へて大衆を催し豚松勇振て重創を負ふ)という章があり、豚松の勇猛とその重傷が描かれている〔。『東海遊侠伝』の同章には、豚松は、ひとりで5人を相手に戦闘し、まず左腕を斬られ、次に右顔面を斬られたが3人を倒した後、切断された腕を接着しようとしたが無理だったので投げ捨てたところ、仲間に親にもらった身体を捨てるなと言われて拾って帰った旨の記述がある〔。同章の末尾には、その翌年には傷が癒えたので禁を破って飲酒したところ、回復せずに死んだ旨、書かれている〔。 今川によれば、腕を斬られたのは別の時期であり、1866年2月10日(慶応元年12月25日)、甲斐国八代郡上黒駒村の黒駒勝蔵(1832年 - 1871年)が、三河国宝飯郡蒲郡村(現在の愛知県蒲郡市)に殴り込みをかけた際に、豚松は左腕を切断する重傷を負ったが、それでも勝蔵一味を追い込み、引き上げる段になって左腕の損傷を仲間に指摘され「おや、ねえや」と言ったという話が残っているとする〔。今川は、年明けすぐに伊勢国荒神山(現在の三重県鈴鹿市高塚町観音寺)で勃発した「荒神山の喧嘩」の直前であり、この時点で勝蔵が蒲郡の殴り込みを行ったかどうかは怪しいと指摘する〔。今川はそれとともに、腕の喜三郎(1642年 - 1715年〔腕の喜三郎 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕)の物語に酷似している点も指摘している〔。同年5月22日(慶応2年4月8日)午前10時、神戸の長吉(1839年 - 1866年)、吉良の仁吉(1839年 - 1866年)、大政(1832年 - 1881年)、小政(1842年 - 1874年)、大瀬半五郎(1820年 - 1886年)、小松村七五郎(1818年 - 1872年)、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)、奇妙院常五郎、桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)、大野の鶴吉らとともに豚松こと「三保の松五郎」も、穴太徳一家と戦闘した「荒神山の喧嘩」に参戦したとされる〔伊藤俊一, p.42.〕。 『東海遊侠伝』では前述のようにすでに左腕と右眼の重傷を負った時点で死んだと記述されているが、明治維新後の1871年(明治4年)に行われた荒神山の手打式の終了直後に撮影された清水一家の集合写真には、右眼に古傷を負う青年の姿で豚松も写っている。今川徳三によれば、豚松はいわゆる「三ン下奴」ではなく、一家を構えた親分であったという〔。次郎長が死去したのは、1893年(明治26年)6月12日、満73歳であったが〔清水次郎長 、コトバンク、2015年7月31日閲覧。〕、この時点での豚松、あるいは「三保の松五郎」の消息は伝わっていない。梅蔭禅寺には、次郎長、次郎長夫人のお蝶、大政、小政、増川仙右衛門の墓もあるが〔梅蔭寺 、小松園、2015年7月31日閲覧。〕、豚松の墓は不明、没年も不明である。 静岡県議会議長を務めた村本喜代作が著した『次郎長巷談』(1953年)にも『豚松』に一章が割かれている〔。フィクションであるが同年に『オール讀物』に連載されていた村上元三の小説『次郎長三国志』でも『三保の豚松』に一章を充てている〔〔次郎長三国志+村上元三 、国立国会図書館、2015年7月31日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豚松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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