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三六戦争(さんろくせんそう・さぶろくせんそう)は、自由民主党内の派閥・清和会(安倍派)の幹部で、共に運輸族の実力者であった、加藤六月と三塚博の間に起きた権力抗争である。 二人の軋轢は国鉄民営化を巡る対立から始まり(加藤は反対派、三塚は推進派)、安倍派会長・安倍晋太郎の死後、清和会内部での主導権を巡る派内抗争、派閥の分裂に発展した。 ==安倍の後継者争い== 当時の安倍派では、同派の幹部・加藤、三塚、塩川正十郎、森喜朗の4人が安倍派四天王と称されていた。そんな中、1991年5月に会長の安倍が逝去。安倍が体調不良となっていた時期から、派内では四天王同士での後継者争いが活発化していた。 塩川、加藤、森、三塚の4人の中では三塚が1番後輩であったが〔ただし、年齢では森が一番若く、早稲田大学雄弁会では三塚が森の先輩にあたり、議員としては森が一期先輩、という関係である。〕、リクルート事件に加藤と森が連座すると、竹下登の後ろ盾もあった三塚は、次々と内閣・党の要職を歴任し、実力者としての基盤を固めた。加藤と森は三塚に対して警戒感を持ち、三塚・加藤の「三六戦争」、三塚・森の「MM戦争」といった言葉が囁かれるようになった。一方で最年長の塩川は福田赳夫に近く、表面的には3人の主導権争いからは距離を置いた。 安倍の死後、清和会事務総長であった三塚は自ら次期派閥会長に意欲を示し、一方の加藤は自民党政調会長就任のため派閥から離れていたため、自分の代わりに塩川を三塚の対抗馬に推し、塩川もこれに乗った。 当初は、三塚系・加藤系共に派内を二分する同等の勢力をもっていたが、加藤の推した塩川は、派内では他の四天王に比べると人望に欠け(小泉内閣での財務相就任時に好々爺扱いされたが、当時は「瞬間湯沸かし器」と呼ばれていた)、また癌の手術をして病み上がりであったことから、若手議員から不安視する声が続出した。これを受け、塩川は次期会長レースから降りることを表明。塩川の脱落により加藤系が不利な立場に置かれると、加藤に近い竹下派会長の金丸信がこの会長問題に介入、清和会座長の長谷川峻に「あなたが会長になったらどうか」と、三塚会長阻止のために長谷川の会長就任を迫った。この金丸の介入により、「他派の人事に口出しするとは何事か」と、一気に派内の大半は三塚支持に雪崩をうち、早稲田大学雄弁会(竹下元秘書、当時参議院議員の青木幹雄も存在)の後輩であった森も三塚支持を表明したことで、長谷川の裁定によって三塚が次期会長と決まった。 早稲田大学で三塚の先輩であった竹下が三塚を支援する一方で、金丸や小沢一郎が加藤を支援するという経世会内の主導権争いが、最終的にこの清和会会長問題を決着させることになった。加藤や加藤グループの議員が羽田・小沢派の新党に合流する土壌はこの時既にできていたと言える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三六戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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