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三原修 : ウィキペディア日本語版
三原脩[みはら おさむ]

三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:同県同郡まんのう町)出身のプロ野球選手内野手。右投右打)・監督・球団経営者
選手としては、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍→読売ジャイアンツ)の契約第1号(日本初のプロ契約選手として紹介される場合〔『野球殿堂 1959‐2009』、『コトバンク』内掲載記事「三原脩」(ソース:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『デジタル大辞泉』)ほか〕 もあるが、1920年代日本運動協会などが発足していたため、厳密には誤りである)。
監督としては、選手の調子・ツキを見逃さない慧眼の持ち主で、周囲の予想を超える選手起用・戦術で数々の名勝負を演出し「三原魔術」と驚嘆を受け、「魔術師」「知将」の異名をとった。日本プロ野球史上、日本野球連盟2リーグ分立後のセントラル・リーグ及びパシフィック・リーグ両リーグ加盟球団での日本選手権シリーズ(日本シリーズ)といった、3種類の優勝を経験した唯一の人物(セ・パ両リーグでの日本シリーズ優勝経験監督は、水原茂広岡達朗がいる)。監督としての3,248試合出場は日本プロ野球記録である。また監督としての5球団在籍も藤本定義石本秀一と並ぶ日本プロ野球タイ記録である(監督代理を含めず)。
記者として、報知新聞社読売新聞社に勤務していた時期があるほか、晩年には日本ハム球団株式会社(日本ハムファイターズ)の代表取締役社長兼球団代表→相談役を歴任した。
巨人総監督退任までの表記は「三原 修」。
長女の敏子は中西太であり、三原は中西の義父にあたる。
== 経歴 ==

=== プロ入りまで ===
地主の末っ子として何不自由なく育った。香川県立丸亀中学校野球にのめり込み、官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中の校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を認めた。高松中では遊撃手として投手の梶原英夫(のち東京帝大)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退した。野球部のマネージャーを務めたのが後に日本社会党委員長となった成田知巳だった。
卒業後、第四高等学校を受験するが、中学の先輩(水原義明)がいた早稲田大学にスカウトされ入学〔真のライバル 3 (もう一人の水原)〈徒然想 2010年4月8日記事〉 〕。野球部では1年生時から二塁手として活躍する。特に春季の早慶戦2回戦で、投手水原茂を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している。リーグ通算67試合出場、231打数68安打、打率.294。
しかし1933年結婚を機に野球部を退部(当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった)、大学を中退し帰郷してしまう。故郷ではぶらぶらしていたが、大学時代の仲間に誘われ大阪府へ転居。全大阪でプレーをした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三原脩」の詳細全文を読む



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