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三好長虎(みよし ながとら、生没年不詳)は戦国時代の武将。父は三好長逸。名は弓介、久介、久助、生長。 父と共に三好長慶に仕える。天文19年(1550年)に三好長慶と反目する将軍足利義輝、細川晴元が中尾城に立て籠もり中尾城の戦いが勃発したが、その中の7月14日に行われた東山の戦いの際、長虎の与力1人が幕府軍の鉄砲に当たり戦死した。公家の山科言継はこれを聞いて自らの日記である『言継卿記』にそのことを書いた。この記録が日本初の鉄砲使用例とされている。 天文20年(1551年)2月27日に師子谷で六角氏と、3月16日には二万の軍を率いて西賀茂を放火している。 永禄4年(1561年)3月30日、将軍義輝の三好義興邸御成りの際には管領細川氏綱、三好長慶、松永久秀、三好長逸、三好宗渭の次に長虎が進物を献上しており、三好家中での席次は高かったことがわかる。 永禄8年(1565年)5月19日、三好家当主の三好義継とそれを補佐する三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)、更に松永久通の軍勢が将軍義輝を襲撃して殺した永禄の変に長虎が参加していたかどうかは不明である。この後、次期将軍として三好三人衆は足利義栄を擁立すると、それに反対する松永久秀、久通父子と三好家を二分して争う事態となるが、長虎は三人衆と行動を共にした。 永禄10年(1567年)2月に三好義継が三人衆を見限って久秀の側に付くという事件が起きた。この頃には長虎は名を兵庫助生長と変えていたが、『多聞院日記』や『言継卿記』によると10月20日、反三好三人衆・反足利義栄で、足利義秋の味方をする三淵氏、香西氏、宇治田原衆と山城国綴喜郡普賢寺谷で合戦し、生長は三淵氏を討ち取って勝利した。 この10日前の10月10日には三人衆が松永久秀の居城大和多聞山城を攻撃し、逆に夜襲を受けて大敗し、東大寺の大仏が炎上するという合戦があった(東大寺大仏殿の戦い)ばかりであった。 元亀元年(1570年)10月9日に三好康長が生長に書状を出している。この頃には生長はまだ存命だったのであろうが、以後の消息は分からない。 == 参考文献 == *天野忠幸『戦国期三好政権の研究増補版』 清文堂出版、2015年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三好長虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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