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三川和久 : ウィキペディア日本語版
小川欽也[おがわ きんや]

小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - )は、日本の映画監督脚本家俳優映画プロデューサーである〔キネ旬, p.93-94.〕〔田中, p.85-86.〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''・''小川和久''・''上田光生''・''水谷一二三''・''姿良三''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''・''小川和久''・''水谷一二三''・''姿良三''・''三川和夫''・''姿良二''・''小川卓寛''、日本映画情報システム、文化庁、2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''・''水谷一二三''KINENOTE, 2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''allcinema, 2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''・''上田光生''日本映画データベース、2014年9月5日閲覧。〕〔''小川欽也''テレビドラマデータベース、2014年9月5日閲覧。〕〔学術情報検索システム 著者名等検索 検索結果、早稲田大学、2014年9月5日閲覧。〕。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る〔〔〔〔。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ〔、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で現在も現役として作品を発表し続ける唯一の人物である〔〔〔〔〔〔。監督作は400本を超える〔〔。
== 人物・来歴 ==

=== フリーランスの助監督として ===
1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる〔。父は三代目中村時蔵の弟子・中村時二郎(生没年不詳)、叔父に新派系の元子役の映画俳優、小川國松(1908年 - 没年不詳)、小川英麿(生没年不詳)がいる〔。小川の誕生のころに新興キネマにいた俳優の「小川欽也」(小川欣也)は別人である〔、2014年9月5日閲覧。〕。幼少時から歌舞伎、映画に親しむ〔。
1953年(昭和28年)3月、東京都立三田高等学校を卒業、中央大学経済学部に進学する〔。1957年(昭和32年)3月、同学を卒業するとともに映画界に入るが、最初からフリーランス助監督として、連合映画富士映画京都映画を渡り歩いた〔。『日本映画監督全集』の小川の項で川島のぶ子は、小川が助監督についた監督として、山本弘之〔、2014年9月5日閲覧。〕、田口哲〔、2014年9月5日閲覧。〕、渡辺祐介〔、2014年9月5日閲覧。〕、近江俊郎〔、2014年9月5日閲覧。〕、小林悟〔、2014年9月5日閲覧。〕、曲谷守平〔、2014年9月5日閲覧。〕、渡辺邦男〔、2014年9月5日閲覧。〕、小森白〔、2014年9月5日閲覧。〕、井田探〔、2014年9月5日閲覧。〕を挙げているが〔、山本弘之がこの時期に監督した作品は、新映画が製作した『蜘蛛男』(配給大映、1958年6月29日公開)のみである〔。この時期に連合映画での監督作があるのは渡辺邦男のみ、『アンコールワット物語 美しき哀愁』(配給東宝、1958年3月25日公開)のみである〔。この時期の京都映画で監督した者は挙がっていないが、1957年に内川清一郎マキノ雅弘穂積利昌が監督している撮影所である〔京都映画 、日本映画データベース、2014年9月5日閲覧。〕。井田探が日活の社員〔であったほかは、これらの監督はみな富士映画および新東宝で作品を発表していた人物である〔〔〔〔〔〔〔。
1959年(昭和34年)、ニッサンプロダクションが小川に連続テレビ映画『大海獣ゲボラ』のパイロット版製作を発注、小川は6話分を製作・監督した〔宇宙船, p.19.〕〔石橋, p.56-57.〕。しかし同作は実現せず、翌1960年(昭和35年)、『怪獣マリンコング』として結実したが、小川はこれには関わっていない〔〔。
その後、富士映画に戻り、次には京都の日本電波映画で助監督を務めた〔。当時の日本電波映画はテレビ映画のみを製作しており、同社撮影所での作品的には『矢車剣之助』(製作日米映画、1959年 - 1961年)、『琴姫七変化』(1960年 - 1962年)の時期にあたる〔日本電波映画撮影所 立命館大学、2014年9月5日閲覧。〕。1962年(昭和37年)1月に富士映画を母体に大蔵貢が設立した大蔵映画に入社したという〔。同年、大蔵映画設立第一作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(監督小森白)が公開される前後に製作された成人映画『』(同年2月27日公開)、『不完全結婚』(共同監督木元健太、同年5月1日公開)、『沖縄怪談逆吊り幽霊 支那怪談死棺破り』(共同監督、同年6月13日公開)では、チーフ助監督としてクレジットされ、4歳上の監督・小林悟を支えた〔〔〔〔〔〔なぜ、いま「本木荘二郎」なのか!? 神戸映画資料館、2012年9月付、2014年9月5日閲覧。〕。『太平洋戦争と姫ゆり部隊』では、小川も助監督を務め、格下の助手に若松孝二がいた。同年10月16日に放映を開始した連続テレビ映画『がんばれ!!大作』でメイン監督の曲谷守平を支えつつ、自らも監督としてデビューした〔〔。同時期に、黒澤明のプロデューサーとして知られた本木荘二郎が監督した『肉体自由貿易』(1962年11月公開)、『毒ある愛撫』(1963年12月3日公開)の助監督も務めている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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