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三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、昭和期の俳優、演出家、コメディアン。本名、田沼 則子(たぬま ただし)。長男は、コメディアンの小林のり一。 ==来歴・人物== 東京市日本橋区浜町(現:東京都中央区日本橋浜町)生まれ。1944年頃、徴兵検査が一向に来ないのを不思議に思い区役所へ行ったところ、職員が本名の「則子(ただし)」を「のりこ」と読み間違い、女性と思われていたことが判明。慌てて書類を作ったため召集令状が届いたのが終戦の5日前で、入隊予定日が戦後の8月18日だったという。 1947年、日本大学法文学部芸術学科を卒業する。青山杉作研究所、俳優座を経て、帝劇で『真夏の夜の夢』に端役で出演していたが、手に持った蝋燭の火が自らの衣装に燃え移り芝居を混乱させたために青山圭男から新劇の世界を追放され〔 『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』 p.88〕、三木鶏郎グループに入り、コメディアンを目指す。当初は本名で舞台に上がっていたが、三木鶏郎の提案により芸名を「三木則子」とする。しかし、プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」と読み間違えたため、プログラムには「三木則平」と表記される。その後、小野田勇から「『則平』は固いから『則』の字は平仮名がいいよ」と助言されたことを受け、正式に「三木のり平」を芸名とした〔小田豊二聞き書き 『のり平のパーッといきましょう』(1999年、小学館)〕。 NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立つ。1950年、清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビュー。1954年には森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、注目を浴び、1957年からは、有島一郎とのコンビによる「東宝ミュージカルズ」で活躍する。 1956年、東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で映画初主演。以後、森繁と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博した。『社長シリーズ』での「パァーッといきましょう」は、流行語にもなった。「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と言わしめる程、その演技力は、大衆的に認知され、評されるほどであった。 演出家としての顔も持ち、大衆演劇を多く手がけた。特に森光子主演の舞台『放浪記』を1981年から担当したことがよく知られている(他界後の公演も、「演出」としてクレジットされていた。没後の実質的な演出は「演出補」の本間忠良が担当)。『放浪記』『雪之丞変化』の演出に対して菊田一夫演劇賞(大賞、平成2年度)。また読売演劇大賞(最優秀演出家賞 第2回 平6年度)など高い評価を受けた。森は、自身より年少且つキャリア的にも後輩であるのり平に対し「のり平先生には感謝している」と晩年まで賛辞を贈っていた。 声優として出演した桃屋のアニメーションCMは、1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれた。1999年の『大根の運命篇』より、実子で長男の小林のり一が声を担当している。また、アニメ『焼きたて!ジャぱん』には、主人公たちの対戦相手として、桃屋のアニメーションの「三木のり平」がそのまま「三木のり平本人」として登場し、ごはんですよ!を使用したパンを制作した。アニメ版の声は青野武が担当した。 映画撮影の際に当時15歳の吉永小百合とキスをした。これが吉永のファーストキスとなった〔完璧版 テレビバラエティ大笑辞典〕。 1999年1月25日、肝腫瘍のため死去。満74歳没(享年76)。1月31日に東京都文京区の護国寺桂昌殿で葬儀が営まれ、葬儀委員長は親友である森繁、喪主は実子で長男ののり一が務めた。出棺の際は、遺族の希望により、はっぴ姿の木遣りの先導で行われた。棺にはロイド眼鏡、パズルの本、演出を手がけた『放浪記』などの台本、競馬新聞、たばこなどが納められた。 風貌や芸風が似ていることから大村崑と間違えられることがあるが、実際、のり平は大村を可愛がっており、『とんま天狗』では大村の父親役で出演した。その際、「鼻メガネ」の芸も大村に譲っている。 空襲で焼け出された時期に佃政一家に身を寄せていたことから、博打にも相当に強かったという。 志村けんは、のり平が出演した『雲の上団五郎一座』を見てコメディアンを志した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三木のり平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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