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三木トリロー : ウィキペディア日本語版
三木鶏郎[みき とりろう]

三木 鶏郎(みき とりろう、1914年大正3年〉1月28日 - 1994年平成6年〉10月7日)は、東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身の作詞家作曲家放送作家構成作家演出家である。本名、繁田 裕司(しげた ひろし)。
昭和前期から平成前期まで活躍した。芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着した〔『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.64〕。「三木トリロー」名義での活動歴もある。
ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
== 来歴 ==
三重県出身の繁田保吉の長男として東京市麹町区飯田町6-22(現・東京都千代田区飯田橋)に生まれる〔『三木鶏郎回想録1 青春と戦争と恋と』p.8-9〕。父は立命館大学を出て岡山地裁の判事となったが、私学出ゆえに差別を受け、官界を去って弁護士となった〔。このため、息子はどうしても東京帝大法科に入れようと望んでいた〔。
暁星小学校から暁星中学校を経て、飛び級で旧制浦和高等学校に入学。2年浪人して東京帝国大学法学部に入学〔『三木鶏郎回想録1 青春と戦争と恋と』p.206〕。浪人2年目は徴兵逃れ専修大学に籍だけ置いている〔『三木鶏郎回想録1 青春と戦争と恋と』p.185〕。東大音楽部では柴田南雄戸田盛国(別名戸田邦雄、のち外交官となる)と交際する。在学中、高等文官試験の司法科と外交科の受験にそれぞれ失敗〔『三木鶏郎回想録1 青春と戦争と恋と』p.219〕。
2年留年して卒業後、1940年4月、日産化学工業に入社。半年後に召集を受け、1940年11月30日に同社を休職して1941年1月10日に二等兵として陸軍東部第六部隊へ入隊する。経理部幹部候補生試験に合格し、戦時中は千葉県の東部軍管区教育隊の経理室に勤務。経理部甲種幹部の同期に堀田政孝(のちの衆院議員)、五島昇(のちの東急電鉄会長)、坂内富雄、高島幸三郎がいる〔『三木鶏郎回想録1 青春と戦争と恋と』p.249〕。軍務のかたわら、諸井三郎に作曲を師事。このころ人形劇団「貝殻座」のために劇音楽を作っている。
大尉として復員した後、混乱した世相の中で「どうせ餓死するならやりたいことをやって死にたい」との思いから復職を断念し、音楽事業の道に進むことを決意。焼跡の歌『南の風が消えちゃった』を作る。音楽演奏会のマネージャーを経て、『音楽ウィークリー』誌を創刊。この雑誌の取材で面会したNHKラジオの音楽部長に『南の風が消えちゃった』を売り込んで認められ、10分間の枠を与えられ、自らの製作・構成・脚本・作詞作曲・演奏によるラジオ番組『歌の新聞』に朝川賞郎や秋元喜雄(のちの河井坊茶)とともに出演することとなる。この番組の構成にあたっては、アメリカ進駐軍の極東軍放送のしゃれた番組作りが念頭にあったという〔『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.46-47〕。
その後、ラジオ番組『日曜娯楽版』〔日曜娯楽版 -NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス 〕(1947年放送開始)での「冗談音楽」、その後身である『ユーモア劇場』で爆発的な人気を博したが、1954年造船疑獄に対する辛辣な諷刺で佐藤栄作を激怒させ、同年6月に同番組は打ち切りとなった〔。当時のNHK会長の古垣鉄郎は、佐藤からの圧力で会長の座を追われたという〔『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.515〕。同年8月、文藝春秋社の提供で文化放送から『みんなでやろう冗談音楽』がスタートし、「冗談音楽」は復活したが、同年12月、吉田内閣の退陣を機に『みんなでやろう冗談音楽』も終了。これとともに「冗談音楽」の廃業を宣言した〔『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.560〕。
また、1951年日本で初めてコマーシャルソングをつくりディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めた。
活動に際しキノトール能見正比古永六輔神吉拓郎野坂昭如らとトリローグループを結成(また、作曲家陣として神津善行いずみたく嵐野英彦桜井順などを、三木鶏郎楽団としてジョージ川口小野満鈴木章治などを集める)。門下からは歌手(楠トシエ中村メイコなど)や俳優(逗子とんぼなべおさみ左とん平など)など、多くの人物を世に送り出している。
晩年は糖尿を患い、糖尿の芸能人仲間と「糖尿友の会」を主宰していた。晩年は1年の半分以上をハワイのマウイ島で過ごしていた。4部構成から成る回想録を書き上げ、このうち1部と2部が平凡社から刊行された直後に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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