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三村 竹清(みむら ちくせい、本名清三郎、明治9年(1876年)5月4日 – 昭和28年(1953年)8月26日)は、日本の書誌学者。 竹問屋を営んでいたことから、竹清と号した。別号に奛(あきら)・安岐羅。東京京橋の出身。終生を市井の学者として過ごした。また篆刻に巧みであった。 ==略伝== 小学校を中途で辞めて12歳で丁稚奉公に出る。小遣いを溜めて『淮南子』を購入。その後も本好きが高じて8年間で小舟1艘ほどの本を買い、読みあさった。日露戦争に看護長として従軍したときも本好きは変らず、『十三経』を行軍に持ち込み友人に背負わせて困らせている。経書以外にも洒落本など様々な本を読んでいる。すぐに下宿の本棚が溢れた。そうするうちに気付いたことなどを書き溜めたノートが20冊を超え、それを整理して書き物を始める。 一方で知識・教養を深める為に勉学を始め、経学・漢学を長坂或斎に学ぶ。また成瀬大域について書法を、池田琴峰、荒木寛畝には画法を受け後には松本楓湖にも画を学ぶ。篆刻は浜村蔵六に私淑した。こうして文人的な教養と技芸を身につけ、文芸万般に深い造詣を得た。詩・書・画・篆刻のみならず、和歌・狂歌・俳諧にも興じている。とりわけ篆刻は一家を成すほど優れていた。 蔵書家の中川得楼の知遇を得て出入りを繰り返すうちに、山中共古、林若樹、内田魯庵、幸田成友、大野洒竹などとの交流が始まる。稀書複製会(山田清作主催:大正7年創立)に第2期から加わり、以降長期にわたり、稀覯書の探索や複製に尽力する。米山堂主人山田清作の仲介などで、坪内逍遥や市島春城との交友も生まれる。大正10年に逍遥に依頼され、熱海水口村温泉の碑の題額を書している。昭和10年(1935年)、逍遥の墓碑銘の揮毫もしている。 古書・古文書などから得た古人の詳細で膨大な知識を蓄え、伝記を起し始める。著名な人物はわざと避けて、歴史に埋もれしまった人物を好んで取り上げた。掲載する雑誌も原稿料を度外視し、できるだけ目立たないものを選んでいる。それでもなお驚くほど膨大な著述を残している。 書誌学者森銑三は、三村竹清・林若樹(林研海の子)・三田村鳶魚を「江戸通の三大人」と評している。森の友人柴田宵曲も交流があった。 昭和28年(1953年)夏に、湯河原にて没す。享年79。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三村竹清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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