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三条公泰
三条公泰(さんじょう きんやす)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権中納言。右大臣三条実親の二男。母は太政大臣西園寺公経の娘。内大臣三条公親の同母弟である。子には共に参議に至った実盛と実永、権中納言に至った公雅、実海、公聖、実尊、実顕、忠海、行讃、女子(後二条天皇後宮、祐助法親王母)がいる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 延応2年(1239年)1月22日、侍従に任ぜられる。仁治元年(1240年)10月28日、従五位上に昇叙。仁治2年(1241年)2月8日、右少将に任ぜられる。仁治3年(1242年)1月5日、正五位下に昇叙〔安嘉門院当年御給。〕。同年3月7日、出羽権介を兼ねる。仁治4年(1243年)1月5日、従四位下に昇叙〔安嘉門院大嘗会御給。〕。寛元元年(1243年)4月18日、右少将に改めて任ぜられ、春宮権亮を兼ねる。寛元2年(1244年)4月5日、左中将に転任。寛元3年(1245年)1月5日、従四位上に昇叙〔春宮去年御給。〕。寛元4年(1246年)2月23日、備前介を兼ねる。宝治2年(1248年)1月7日、正四位下に昇叙〔中宮当年御給。〕。同年10月29日、蔵人頭に補せられる。 建長2年(1250年)1月13日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。同年9月16日、従三位に叙せられる。建長3年(1251年)1月22日、伊勢権守を兼ねる。建長4年(1252年)12月4日、正三位に昇叙。建長6年(1254年)1月5日、従二位に昇叙。同月13日、権中納言に昇任。正嘉2年(1258年)11月2日、正二位に昇叙。正元元年(1259年)9月28日、解官される〔解官の理由は明確ではない。ただし、同年11月に亀山天皇が即位していることから、後深草天皇から亀山天皇へ代替わりに当たって何らかの出来事があったのかも知れない。なお、兄公親は当時権大納言兼右大将であり、その地位に変動はなかった。しかし、兄公親も弘長2年(1262年)1月に内大臣を辞してから薨去するまで、全く官位の昇進がなかった。順調な昇進であった兄弟がそろって辞官後30年間も地位に変化がなかったことになり、これは大覚寺統が皇位にあった時期と重なるのである。〕。 正応5年(1292年)5月15日、出家〔同年7月に兄公親が薨去する。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三条公泰」の詳細全文を読む
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