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三条公茂[さんじょう きんしげ]
三条公茂(さんじょう きんしげ)は鎌倉時代後期の公卿。押小路内府と号す。従一位内大臣。父は太政大臣三条実重、母は内大臣中院通成の娘。異母弟である実忠を養子とした。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。 弘安8年(1285年)1月5日、叙爵。正応元年(1288年)1月5日、従五位上に昇叙。同年11月21日、正五位下に昇叙。正応2年(1289年)2月24日、従四位下、同年3月26日には従四位上と進み、同年4月6日、侍従に任ぜられる。同年12月29日、禁色を許される。正応3年(1290年)1月19日、左中将に任ぜられる。同年10月29日、正四位下に昇叙。 永仁4年(1296年)1月5日、従三位となる。左中将は元の如し。永仁6年(1298年)5月23日、正三位に昇叙。正安3年(1301年)4月5日、参議に任ぜられ左中将は元の如し。なお、同年中に従二位に昇叙されたか。乾元元年(1302年)3月23日、権中納言に任ぜられる。嘉元元年(1303年)9月28日、中宮権大夫を兼ねる。嘉元3年(1305年)12月30日、権大納言に任ぜられ、中宮大夫に転じる。徳治2年(1307年)1月5日、正二位に昇叙。延慶3年(1310年)12月19日、中宮徳大寺忻子が女院(長楽門院)となるため中宮大夫を停止。正和元年(1312年)8月10日、右近衛大将を兼ねる。正和4年(1315年)7月21日、左大将に転じる。 文保元年(1317年)6月21日、内大臣に任ぜられ左大将は元の如し。同年8月24日、左大将を辞した。文保2年(1318年)8月15日、上表して内大臣を辞した。元応元年(1319年)1月5日、従一位に昇叙〔『花園天皇宸記』1月6日の条には、公茂のほかに右大臣花山院家定、関白一条内経らが従一位に叙せられたとの記述がある。〕。以後、前内大臣従一位のまま元亨4年(1324年)1月9日、薨去〔『花園天皇宸記』同日の条によると、才能に溢れていたとは言えないが公事に良く通じていた、という評がある。公茂の薨去を上皇が哀惜している様子が記されている。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三条公茂」の詳細全文を読む
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