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三条実房[さんじょう さねふさ]
三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』の内容に従って記述する。 仁平2年(1152年)1月9日、叙爵〔媜子内親王当年御給。〕。仁平4年(1154年)1月7日、従五位上に昇叙〔院当年御給。〕。保元元年(1156年)1月27日、侍従に任ぜられる。9月17日、左少将に任ぜられる。11月28日、正五位下に昇叙〔鳥羽院当年御給。〕。保元2年(1157年)1月24日、美濃介を兼ねる。11月24日、禁色を許される〔父公教が内大臣に任ぜられたあと。〕。保元3年(1158年)1月6日、従四位下に昇叙。3月13日、右中将に転任。11月26日、従四位上に昇叙。平治元年(1159年)1月3日、正四位下に昇叙〔朝観行幸時、女院御給。〕。永暦元年(1160年)5月10日、蔵人頭に補される。10月3日、従三位に叙される。右中将はもとの如し。長寛元年(1163年)1月2日、正三位に昇叙。同月24日、但馬権守を兼ねる。
仁安元年(1166年)6月6日、参議を経ずに権中納言に任ぜられる。9月4日、帯剣を許される。仁安2年(1167年)1月28日、従二位に昇叙〔行幸時に院司。〕。2月11日、中納言に転正。仁安3年(1168年)8月10日、権大納言に任ぜられる。承安元年(1171年)4月21日、正二位に昇叙(建春門院去年未給)。寿永元年(1182年)8月14日、皇后宮大夫を兼ねる〔立后の日。〕。寿永2年(1183年)4月5日、大納言に転正。文治元年(1185年)8月9日、母の喪に服す。
文治2年(1186年)11月28日、右近衛大将を兼ねる。文治3年(1187年)6月28日、皇后亮子内親王が女院(殷富門院)となったため皇后宮大夫を止める。文治4年(1188年)10月14日、左近衛大将に転任。文治5年(1189年)7月5日、任大臣宣旨があり、同月10日に右大臣に任ぜられる。左大将は元の如し。12月、左大将を辞した。建久元年(1190年)7月10日、左大臣に転任。建久6年(1195年)9月25日、左大臣を辞する上表〔重厄と天変による。〕をおこなったが返却された。建久7年(1196年)3月23日、病により上表して左大臣を辞した。4月25日、出家。嘉禄元年(1225年)8月19日、薨去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三条実房」の詳細全文を読む
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