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三枝源次郎[さえぐさ げんじろう]
三枝 源次郎(さえぐさ げんじろう、1900年9月8日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である〔''三枝源次郎''、日本映画データベース、2012年11月8日閲覧。〕〔''三枝源次郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月8日閲覧。〕〔''三枝源次郎''、日本映画情報システム、文化庁、2012年11月10日閲覧。〕〔キネマ旬報、p.185.〕。 == 人物・来歴 ==
=== 日活向島から大将軍へ === 1900年(明治33年)9月8日、東京府豊多摩郡渋谷村、のちの東京市渋谷区渋谷3丁目8番地に当たる地に生まれる〔。 1921年(大正10年)3月、東京物理学校(旧制専門学校、現在の東京理科大学)を卒業し、同年5月、日活向島撮影所監督部に入社する〔。細山喜代松、若山治、鈴木謙作に師事、同僚助監督の溝口健二とは連日酒杯を傾け、論じあう仲であった〔。1923年(大正12年)8月10日に公開された若山治監督の『男性の意気』には、脚本家としてクレジットされている〔。同年9月1日に起きた関東大震災によって同撮影所は壊滅し、現代劇部は日活京都撮影所に移転し、三枝は、そこでも脚本を書き、鈴木謙作の監督作に採用されている〔〔映画「特急三百哩」(1928)の復元 、太田米男、大阪芸術大学、2012年11月8日閲覧。〕。1924年(大正13年)7月4日に公開された『民族の黎明』で監督としてデビューした〔。1925年(大正13年)7月12日に公開された『赫い夕陽に照されて』は、刃傷事件で降板した溝口健二に代わって、三枝が監督し、仕上げた作品である〔〔。 日活の取締役であった杜重直輔が1931年(昭和6年)ころに設立した大日本天然色映画で、翌1932年(昭和7年)、『奇跡の生還』という、当時珍しいカラー映画を監督している〔。1934年(昭和9年)8月22日に公開されたトーキー『日本人なればこそ』を最後に京都を去り、東京の大都映画に移籍、ふたたびサイレント映画を監督した〔。1935年(昭和10年) - 1941年(昭和16年)の時期、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に存在した全勝キネマに在籍していた記録がある〔映画公社旧蔵資料目録 、佐崎順昭、東京国立近代美術館、2012年11月8日閲覧。〕。一方、『日本映画監督全集』(1976年)誌上に三枝の項目を執筆した岸松雄によれば、三枝が京都を去った年の9月には、日活多摩川撮影所製作部に入社し、5年在籍ののち1939年(昭和14年)に退社し、1940年(昭和15年)1月には「朝日映画製作株式会社」〔岸の原文では「朝日映画株式会社」。キネマ旬報、p.185.〕に入社して翌年には同社映画部長・製作部長に就任した旨の記述があり〔、文化庁の日本映画情報システムにも、『海国日本』等をはじめとする朝日映画製作(朝日映画社)における1940年 - 1944年の三枝のドキュメンタリー作品が記載されている〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三枝源次郎」の詳細全文を読む
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