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三沢 寛一(みさわ かんいち、1882年(明治15年)9月〔『新編日本の歴代知事』197頁。〕 - 1968年(昭和43年)7月15日〔『朝日新聞』(東京本社発行)1968年7月16日朝刊、15面の訃報より。〕)は、日本の文部・内務官僚、政治家。北海道札幌市長、山形県知事、島根県知事、札幌観光協会長〔札幌観光協会ホームページ 〕。 == 来歴・人物 == 長野県上伊那郡沢岡村(現伊那市)〔『長野県歴史人物大事典』676-677頁。〕に三沢八百吉の二男〔として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)〔、第一高等学校を経て、1907年、京都帝国大学法科大学卒業。1908年11月、文官高等試験行政科試験に合格して文部省(現在の文部科学省)に入省し、専門学務局属となる〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』192頁。〕。 文部省で4年間勤務したのち、東北帝国大学(現在の東北大学)事務官を経て1912年に29歳の若さで東北帝国大学農科大学(のちの北海道帝国大学、現在の北海道大学)の初代事務官に就任(当時の学長は佐藤昌介)。法学講師嘱託もこなした。その後、宮城県理事官、広島県理事官、千葉県警察部長、兵庫県産業部長、宮城県内務部長、愛知県書記官・内務部長、福岡県書記官・内務部長などを歴任〔。山形県知事〔山形県ホームページ 第2代以降の官選知事 〕、名古屋市助役、島根県知事〔『新編日本の歴代知事』790頁。〕を歴任。1931年12月18日に島根県知事を休職〔『官報』第1493号、昭和6年12月19日。〕。1932年2月5日、依願免本官となり退官した〔『官報』第1529号、昭和7年2月6日。〕。 1937年、札幌市長に就任。1945年、札幌市長を退任した。後任は上原六郎。 市長在任中は1940年開催予定であった札幌オリンピックの開催返上、円山町との合併、札幌飛行場の設置、函館市を抜いて北海道内人口1位を史上初めて達成するなど重要事業を担った。ほかに、札幌観光協会の会長、大日本体育会北海道札幌市支部長などを務めた。 その後帰郷して、信濃宮奉賛会長となり宗良親王の顕彰を行った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三沢寛一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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