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三沢 為虎(みざわ ためとら)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。 南信濃の国人飯島氏の末裔、もしくは木曾義仲の末裔を称する。出雲国仁多郡三沢城を根拠とする三沢氏の当主。三沢氏は尼子氏傘下であったが、元々独立性の強い国人領主であり、父の三沢為清の時に尼子氏を見限り、毛利氏に臣従した。 == 生涯 == === 毛利氏への臣従と尼子再興軍との戦い === 生年不詳だが、父の生年から1550~1560年代の生まれと推測される。為虎幼少の頃、もしくは誕生前に父の為清は安芸国の戦国大名毛利氏に臣従し、その家臣となった。永禄12年(1569年)、毛利氏の北九州への侵攻に従い、吉川元春傘下として出陣。筑前国立花山城の戦いに加わった。 同年、毛利氏の主力が九州に集中している隙を狙って尼子再興軍の尼子勝久や山中幸盛が出雲国に侵攻してくると、父とともに尼子再興軍を迎撃した。永禄13年(1570年)布部山の戦いでも戦功を挙げ、尼子再興軍を撃破した。引き続き、吉川元春指揮下で山陰方面を転戦する。 また、天正元年(1573年)に織田信長に追放された足利義昭が鞆に住まいを構える(通称:鞆幕府)と、その御供衆となった。天正2年(1574年)、父の隠居に伴い家督を相続。そして天正6年(1578年)の上月城の戦いにも従軍し、尼子氏の最期を見届けた。 そして天下統一を目論む織田信長とその配下、羽柴秀吉との戦いにも参加し、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも出陣した。羽柴秀吉との戦いでは、三沢為虎が秀吉に通じたとの噂があり、その噂を否定するために吉川元長に誓紙を提出している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三沢為虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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