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三沢 糾(みさわ ただす、1878年 - 1942年5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、哈爾浜学院院長と多くの学校のトップを務めた。 ==人物と来歴== 1906(明治40)年、クラーク大学心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。 水産講習所のドイツ語講師などを経て、1912(明治45)年、広島高等師範学校教授に就任。広島高師附属中学校主事を務めた後、1915年、和歌山県立海草中学校(現・向陽高校)校長となった。 1918年、新たに設立された大阪府立第十一中学校(後に高津中学校に改称)の初代校長に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、大正デモクラシーの気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名になり、多くの見学者が訪れた。後にNHK連続テレビ小説「はっさい先生」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。 1925年、台北高等学校校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。 1929年、京都帝国大学学生科長に就任。1931年、成城学園に転じ、教育顧問を経て(旧制)成城高等学校校長になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、神戸女学院の院長に誘われたが、受けなかった。 1935年、旧満州にわたり哈爾浜学院院長を務めたが、関東軍との折衝に限界を感じ、1938年退任。1939年から長男夫婦とリンゴ園を経営しながら執筆活動に入った。 1942年、脳溢血のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺(鳥取県鳥取市)に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三沢糾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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