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三浦大四郎[みうら だいしろう]
三浦 大四郎(みうら だいしろう、1928年2月4日 - )は、東京都出身の映画館経営者、映画製作者、映画評論家。 == 人物・来歴 == 山下家の四男で、大四郎と命名された。成城高等学校 (旧制)から東京大学経済学部卒業。 大学卒業後、まもなく仲間と新劇の舞台に立ったこともあったが、作家三角寛の婿養子となり、三角が経営する映画館池袋人世坐の上映番組編成に若社長として加わるなどした。三角は錚々たる小説家を多数株主に招き「文士経営人世坐」と標榜。名作とされた評判の映画を専門に上映し、名画座として多くの映画ファンに知られるようになった。 三角は、1952年に板橋に弁天坐、 1955年に池袋東口に文芸地下劇場、翌年に文芸坐本館をオープンさせた。三角の個性的な性格から、1959年に人世坐の従業員が労働争議を起し、この争議は長期化した。争議の対応にあたった三浦は、人世坐社長である義父との折り合いが悪くなり、責任をとらされて人世坐を退職。妻の寛子と二人の女の子ともども雑司ヶ谷の家を離れた。三角死去後の1972年に文芸坐に待望の復帰を果たす。しかし文芸坐の土地建物が三角寛個人名義であったため、多額な相続税の支払いに苦労した。 1997年の文芸坐閉館まで三角の名跡を継いだ三浦は、池袋の文化状況に少なからず影響を与える存在になっていた。文芸坐倒産後、パチンコ店のマルハンが跡地に自社ビルを建設し〔 新文芸坐支配人 永田稔氏へのインタビュー、Library.com, 2004年8月〕、2000年にはその一角に新文芸坐が開館したが、三浦が土地所有権を手放さず、受け取った多額な地権料の処理で経営コンサルタント会社「ネオギルド」に脱税工作を依頼し、国税庁から厳しい査察を受け、法的にも社会制裁を受けた。また映画評論家としても活躍したが、執行猶予つきの有罪判決を受けたことで謹慎している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦大四郎」の詳細全文を読む
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