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三浦 文丈(みうら ふみたけ、1970年8月12日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。1993年から2006年までJリーグの選手として活動した。ポジションは主にミッドフィールダー(MF)、フォワード(FW)。現在はAC長野パルセイロ監督。 == 来歴 == === 現役時代 === 小学校2年の時にサッカーを始める。6年次の1982年には清水FCの一員として全日本少年サッカー大会優勝。清水第五中学校3年次には全国中学校サッカー大会準優勝に貢献し、日本ジュニアユース代表に選出された〔当時のメンバーには中村忠、遠藤昌浩らがいる。〕。 1986年に清水市立商業高等学校に進学。3年次の1988年に主将を務め、第67回全国高校サッカー選手権では「タレント軍団」の中でエース・精神的主柱となり抜群の展開力と運動量で優勝に貢献した。同期には古賀正人など〔1学年下には藤田俊哉、2学年下には名波浩、山田隆裕、大岩剛がいる。なお、藤田、大岩とは筑波大でもチームメイトとなった。〕。また同年には日本ユース代表に選出され、AFCユース選手権に出場した。 1989年に筑波大学進学。1年次からバルセロナ五輪代表に選出され1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪アジア予選に出場、最終予選のバーレーン戦ではハットトリックを決める活躍を見せたが、本大会出場に導く事は出来なかった。また4年次の1992年には同大学の主将を務め総理大臣杯と関東大学サッカーリーグの二冠に貢献した。 1993年にJリーグの横浜マリノスに入団。初年度からリーグ戦24試合に出場、翌1994年にはリーグ戦38試合に出場し、ドリブル突破を武器とするFW・攻撃的なMFとして活躍した。1995年にはサントリーシリーズ優勝するとともに、ダイナスティカップの日本代表に初選出されるが、代表としての試合出場は成らなかった。1996年、1997年にはJリーグ選手協会の監事を務めた〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿1996 、同 1997 〕。 1998年は試合出場機会が減少し、翌1999年には横浜M在籍時に指導を受けた清水秀彦に請われて京都パープルサンガへ移籍。三浦知良との2トップも経験するも、清水の監督解任を受けてシーズン途中でジュビロ磐田へと移籍〔 ジュビロ磐田 (1999年10月18日)〕〔 ジュビロ磐田 (1999年10月19日)〕。磐田では同年末にJ1年間優勝を経験した。また、この頃からポジションをボランチに転向した。 2001年にFC東京へと移籍〔 ジュビロ磐田 (2001年1月10日)〕〔 FC東京 (2001年1月9日)〕。背番号「10」を背負った。2002年には開幕直後の対浦和戦(埼玉)にて、福田正博と激突し左膝前十字靭帯断裂及び内側側副靱帯を損傷する重傷を負い長期離脱、年末の天皇杯で復帰するも、投入後わずかで自ら交代を申し入れ、本格復帰は翌2003年になった。FC東京ではバランスを取って中盤を安定させ〔365日 FC東京 原語録 三浦はさすがですよ。味方が安心できる【ナビスコ杯の千葉戦(21日)終了後】 東京中日スポーツ (2005年5月24日)〕、攻守に貢献するプレー面だけではなく、チームを束ねる精神的主柱として〔【HOT6!J1は7月の6試合が激アツ!】再開後はこう戦う! F東京編 Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2005年6月27日)〕絶大な信頼を集めた〔日刊スポーツ (2005年7月16日)〕。2004年にはナビスコカップで優勝を果たした。 2005年に入り出場機会を大きく減らしたものの、先発出場の際には好パフォーマンスを見せており〔連敗脱出へ 茂庭起爆剤 東京中日スポーツ (2009年4月25日)〕、三浦としてもJ2など下位クラブならばまだ十分通用するという自信を持っていたが、愛着あるクラブでの現役引退を望み〔三浦文丈引退 26日浦和戦 味スタラストゲーム 東京中日スポーツ (2006年11月25日)〕、2006年11月24日に現役引退を表明した〔 FC東京 (2006年11月24日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦文丈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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