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三浦 新七(みうら しんしち、1877年(明治10年)8月12日 - 1947年(昭和22年)8月14日)は、日本の経済学者、実業家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。 == 来歴・人物 == 山形県山形市旅籠町の三浦新兵衛の四男として生まれる。旧制山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。1903年(明治36年)からドイツに留学しライプツィヒ大学等でランプレヒト等に師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。門下に上原専禄(中世ヨーロッパ史学者・元一橋大教授)、村松恒一郎(経済史学者・一橋大名誉教授)、町田實秀(法制史学者・一橋大名誉教授)など。 翌年1912年(明治45年)、には、一族の宗長である三浦家(元両羽銀行頭取三浦権四郎)の養嗣子となる。1927年(昭和2年)、家業である両羽銀行(現山形銀行)監査役となり、その後同頭取。多額納税により1932年(昭和7年)9月29日、貴族院議員〔『官報』第1727号、昭和7年9月30日。〕。頭取を辞し、1934年(昭和9年)東京商科大学(現一橋大学)学長。日本銀行参与等も歴任。研究者、財界人、政治家として活躍する〔三浦新七とは - コトバンク〕。 1920年(大正9年)の戦後恐慌・1927年(昭和2年)の金融恐慌そして、1930年(昭和5年)の昭和恐慌と3度の恐慌に見舞われ、当時の金融機関は苦境に陥っていた。両羽銀行とて例外ではなく、山形県の中核的金融機関として、多くの不良債権を抱え込むに至った。このため筆頭株主である三浦家の養嗣子となった新七に対し、帰郷を要請し同行の再建を委ねることとした。 三浦は頭取に昇格後、従来の資本金を4分の1に減資し、それにより不良債権の一括処理を行うことを主眼とする経営再建策を講じた。また、この際には同行、3代、8代、頭取を務めた先代・吉三郎の養子となり、資産管理に当たっていた長谷川吉三郎(吉弥)に対し「再建を2人でしよう」と申し入れ、両人で再建に取り組んだ。この甲斐もあり山形県下の金融機関は、東北他県とは異なり銀行が破綻することなく昭和初期を無事に乗り切った。 1935年(昭和10年)、東京商科大に白票事件と呼ばれる学園紛争が生じたため三浦が短期間、学長として復帰することとなった。そこで養嗣子となった三浦弥太郎が取締役として両羽銀に入行。長谷川とともに第二次世界大戦前後の同行の経営を担い、今日の山形銀行の礎を築いた。 1947年(昭和22年)8月14日、耳下腺癌のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁〕癌研究所附属病院にて逝去〔文献目録 人物編 - 山形県立図書館〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦新七」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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