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三浦 為春(みうら ためはる)は、日本の安土桃山時代・江戸時代初期の武将。三浦長門守家初代当主。徳川家康の側室・養珠院(於万)の兄であり、徳川頼宣(紀州藩祖)と徳川頼房(水戸藩祖)の伯父に当たる。 == 生涯 == 天正元年(1573年)、正木頼忠の子として相模国足柄下郡小田原(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。母は北条氏隆の娘とされるが〔『寛政重修諸家譜』887頁。〕、北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉)とも伝わり、諸説ある。祖父・正木時忠は三浦氏の末裔と称する安房正木氏の一族である勝浦正木氏当主で、安房里見氏の家臣として上総の勝浦城を任されていたが、永禄7年(1564年)に一時後北条氏に寝返っており、為春の出生時は父の頼忠が人質として後北条氏の本拠である小田原に滞在していた。天正3年(1575年)に伯父の正木時通が急死すると、父の頼忠は家督を継ぐため勝浦に帰還したが、為春はそのまま小田原の外祖父の許に留まり、天正14年(1586年)になってから帰還した〔植田90 〕。 豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡後、里見氏は惣無事令違反を理由に上総・下総を没収され、この頃までに里見氏に帰参していた勝浦正木氏も領地を失うこととなり、安房に戻った。妹の於万が新たに関東の支配者となった徳川家康の側室として寵愛を受けるようになると、為春は隠居した父に代わって慶長3年(1598年)に召し出され、3,000石を与えられた〔。同時に正木姓を改めて三浦姓に復することを許されており〔、以後三浦為春と名乗った。 慶長8年(1603年)に妹の於万が産んだ徳川頼宣の傅役を命じられ、慶長13年(1608年)2月20日には常陸国内に5,000石を賜る〔。翌慶長14年(1609年)に頼宣が駿府藩50万石に転封されると、遠江国浜名郡に8,000石を領した〔。同年9月、家康の命を受け、前年に加藤清正の五女・八十姫と婚約していた頼宣の結納使となり、清正の領国である肥後国に下って納幣〔。大坂の陣では頼宣に従って出陣しており、戦後は頼宣と共に京都に滞在し、京都では日蓮宗(法華宗)の僧で不受不施派の祖となった日奥の教化を受けている〔植田91 〕。 元和5年(1619年)には紀州藩55万5,000石に転封された頼宣の紀伊入国に随行した。紀伊国那賀郡貴志荘1万5,000石を治める「万石陪臣」となり、貴志城を築城している。寛永元年(1624年)に家督を子の為時に譲って隠居し、寛永4年(1627年)に了法寺において剃髪入道して遁庵定環と号する〔植田92 〕。寛永3年(1626年)4月5日、従五位下に叙位〔。慶安4年(1651年)に法号の妙善院日曜を大雲院日健に改めている〔植田102 〕。 承応元年(1652年)7月2日、死去。享年80。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺〔了法寺は元和9年(1623年)に亡父・正木頼忠の菩提を弔うために為春によって建立され、当初は日蓮宗不受不施派に属していたが、江戸幕府による全国規模の不受不施派弾圧(寛文の惣滅)を受け、為春死後の寛文6年(1666年)に天台宗に改宗されている。〕。子孫は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれた。 歌人・文化人としても知られ、文学者としての評価も高く、ある年には女子のために仮名草子の『あだ物語』を作り、大覚寺門跡の空性法親王(後陽成天皇の弟)がこれを甥の後水尾天皇に見せたところ、天皇は感心して跋文(奥書)を書き入れたという〔。他にも紀行文の『太笑記』や俳諧集の『野奸集』、『犬俤(いぬおもかげ)』などの作品が現存している。日蓮宗の熱心な信者であり、晩年には常に法華経を読誦し、題目の書写を日課としたという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦為春」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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