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三浦 義意(みうら よしおき、明応5年(1496年) - 永正13年7月11日(1516年8月9日))は、戦国時代初期の武将。相模三浦氏最後の当主。三浦義同の嫡男。室に真里谷信勝の娘・真里谷恕鑑の妹(異説有)。通称・荒次郎。官途名は弾正少弼。 父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ、永正7年(1510年)頃、家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城(現在の平塚市)・住吉城(現在の逗子市)を北条氏によって奪われて三浦半島に押し込められた。 父と共に三崎城に籠って3年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父・義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して討ち取られたと言う。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了する事になる。 『北条五代記』(『北条盛衰記』本巻二)では、脚色されている部分があるが、背丈は7尺5寸(227センチ)と伝え、最期の合戦で身につけた鎧の鉄札の厚さが2分(6センチ。通常の鎧の札厚が1ミリ程度である事を考えると異常な厚みであり、重過ぎる為、創作とみられる)、白樫の丸太を1丈2寸(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、それを節金を通した棒(金砕棒)をもって、戦い、兜の頭上を打つと粉々になって胴に達し、横に払うと一振りで5、10人と押し潰し、討たれたものは500余名になった末、自害したと記述される。 == 関連史料 == *鎌倉幕府『吾妻鏡』 *上杉孝良『改訂 三浦一族- その興亡の歴史-』 *横須賀市『横須賀市史』『新横須賀市史』 *三浦一族研究会『三浦一族資料集』 *三浦浄心『北条五代記』 *『相州兵乱記』 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦義意」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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