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三浦 義澄(みうら よしずみ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。 == 経歴 == 相模国三浦郡矢部郷の出身。具体的な時期は不明ながら、上総常澄の加冠によって元服し義澄と名乗ったとされる〔野口、1994年。 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、加冠役を勤める烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より)、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる(山野論文(山本、2012年、p.163~168)にも類似した例が紹介されている)。〕。 平治元年(1159年)の平治の乱では源義平に従うが、平家方に敗れて京都から郷里に落ち延びる。長寛2年(1164年)、兄・杉本義宗が39歳で亡くなり、それによって三浦氏の家督を継ぐ。 治承4年(1180年)、源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰伏した重忠らと共に鎌倉に入る。 この頃、平家側についていた妻の父である伊東祐親が捕らえられ、その身を預かる事となり、義澄は頼朝に祐親の事を許させるが、祐親は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。 義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした〔他の6名は、千葉胤正、工藤祐経、足立遠元、後藤基清、葛西清重、八田知重。〕。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の義村に賞を譲っている。 正治元年(1199年)、頼朝が死去した後には2代将軍・源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の変で梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦義澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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