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三浦義連 : ウィキペディア日本語版
佐原義連[さわら よしつら]

佐原 義連(さわら よしつら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将相模国豪族三浦義明の子。三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。
== 生涯 ==
治承4年(1180年8月源頼朝挙兵に一族と共に参じて御家人となる。養和元年(1181年)4月、義連は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)〔他の10名は、北条義時下河辺行平結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝葛西清重千葉胤正・八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を結城朝光と義連、御後を梶原景季と八田知重が警護している。〕。同年6月に頼朝が納涼のために三浦へと出かけたおり、三浦氏とともに上総広常も出迎えたが、広常は下馬の礼をとらず、頼朝に近侍していた義連がそれを咎めたとか、酒宴の席でその広常と三浦一族の岡崎義実とが水干のことで乱闘寸前になったときに義連が割って入ってその場を納め、頼朝の御感に預かったなどと書かれている(『吾妻鏡』養和元年6月19日条)。ただし『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは疑わしい。
治承・寿永の乱では一ノ谷の戦い源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれている。1672年に刊行された『会津旧事雑考』によれば、義連は文治5年(1189年7月奥州合戦に従軍し、その功により、陸奥国会津四郡を与えられたとしている。これは後世の編纂であるから、そのまま信じることはできないが、嘉禄3年(1227年)7月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪と決した際(嘉禄の法難)、奥州に所領を持つ佐原盛時(義連の孫)の預かりとなっている事実から、盛時が宝治合戦以前より会津郡耶麻郡加納庄を領していたことへの傍証となる〔鈴木かほる「佐原三浦介の本領・陸奥国会津上野新田の現在地比定」『神奈川地域史研究』20号 2002年〕。また宝治合戦(1247年)の時点、盛時の異母兄が会津の北田や藤倉を名字地とする北田広盛・藤倉盛義の名が『吾妻鏡』にみえるから、佐原氏が宝治合戦以前から会津を所領としていたことは明らかである〔鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで―』新人物往来社 2007年 136頁〕。
義連は文治5年(1189年)の北条時房元服の際、頼朝の命により烏帽子親となる。建久3年(1192年)の頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられる。関東御領遠江国笠原荘の惣地頭兼預所も務めた。
没年には諸説あり、「異本塔寺長帳」では建久3年(1192年)4月15日に75歳で死去、「葦名系図」では建仁3年(1203年)5月17日に78歳で死去、「葦名家由緒考證」では承久3年(1221年)4月15日に82歳で死去とある〔『若松市史』上巻〕。
なお、三浦氏の庶流である佐原氏は、その多くが宝治元年(1247年)の宝治合戦において宗家・三浦氏とともに滅び、北条氏方に付いた佐原盛時が残り、後に相模三浦氏として再興した。また、鎌倉時代から会津に分かれた庶流は蘆名氏を称して有力な戦国大名となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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