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三浦 胤義(みうら たねよし)は、鎌倉時代前期の三浦一族の武将。三浦義澄の末子(九男)。鎌倉幕府の御家人。 == 経歴 == 元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、牧氏事件に兄の義村とともに出陣。建暦3年(1213年)の和田合戦で功を立てた。建保6年(1218年)6月の源実朝の左大将拝賀には参列しており、その後に京に上って検非違使判官に任じられた。 在京していたところ後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康に説得されて倒幕計画に参加。兄の義村は日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方すると確約した。 胤義の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で男子を生んだ女性であり、頼家の死後に胤義の妻となっていた。実朝の横死後に仏門に入っていた妻と頼家の子の禅暁の将軍擁立を望んだが、執権北条氏の画策で将軍後継者には摂関家から三寅が迎えられ、その上に禅暁も殺されてしまう。『承久記』によれば、先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている。 承久3年(1221年)5月に後鳥羽上皇が挙兵すると軍議で「朝敵となった以上、義時に味方する者は千人もいまい」と楽観論を述べている。鎌倉の義村に密書を送るが、義村は使者を追い返して密書を幕府に届けてしまい、京方の目算は崩れてしまった。 『吾妻鏡』によると、北条政子が御家人を説得する演説をした際に秀康と胤義の名を逆臣として挙げており、幕府からは京方の中心人物と見られていた。 6月に京方の大将軍として美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。院の御所で最後の一戦を図るが、御所の門を閉じられ追い返されてしまい、逆に乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出されてしまう。残った京方武士と東寺に立て篭もるが、義村の軍勢に攻められ、胤義は子息の胤連、兼義とともに奮戦して西山木嶋(京都市右京区太秦)で自害した。東国に残していた幼い子たちも処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦胤義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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