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三浦 貴(みうら たか、1978年5月21日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。 == 経歴 == 浦和学院高では3年生の時に春夏連続で甲子園出場を果たす。その後東洋大学へ進学、東都大学1部リーグ通算46試合登板、13勝19敗、防御率2.47、218奪三振。2000年秋季のリーグは7勝2敗で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞。2000年度ドラフト会議で、読売ジャイアンツから3位指名を受け、入団。 2001年、阿部慎之助と同い年・同期入団で開幕一軍に加わりバッテリーを組んだ。1年目から中継ぎ投手として140km/h台後半の直球とスライダー、カーブ、フォークを武器に活躍。プロ初勝利を含む3勝を記録し、49試合に登板して防御率3.41の成績だった。 2002年シーズン、緒方孝市に与えた頭部死球をきっかけに相手打者のインコースへ投げられなくなったと言われており、以降は登板機会がなくなってしまった。この年新規定になって初めての危険球退場者であった。同年の日本シリーズは出場機会なしに終わる。 当時の原辰徳監督に身体能力と野球センスを買われ2003年シーズンから野手へ転向。当時の原は「投手なら5000万円どまりだが野手なら2億円稼げる素質がある」と評した。投球イップスは野手転向に至った発端ではあるが、野手転向当時の月刊ジャイアンツの三浦本人の談話によると、「イップスを見かねて仕方なく野手転向させた」というよりも、ルーキーイヤーから外野手転向を原(当時はヘッドコーチ)に熱心に勧誘されていたそうである。イップスについては、後にインタビューで否定している〔『プロ野球「戦力外通告」終わらない挑戦編』p.177)〕。 初年度は連携の少ない三塁手を守り、終盤に一軍に昇格。2003年9月15日の中日戦において平井正史から野手転向後初安打となるプロ初本塁打を放った。 2005年シーズン、二軍で打率.256・10本塁打・47打点(チームトップ)・長打率.507をマーク、守備力にも評価を得る。2006年も打率.288・5本塁打・6盗塁、2007年打率.241・6本塁打・6盗塁と、二軍で主力選手として活躍するものの、一軍ではなかなかチャンスを生かせず、2007年シーズン終了後に戦力外通告を受ける。 12球団合同トライアウトに2回とも参加したが1ヵ月が経過しても獲得のオファーはなく、一時期は引退を決意していた。12月28日に福地寿樹がヤクルトへ移籍となり、外野手の補強を必要としていた西武が獲得することが報じられ、年が明けた1月10日に埼玉西武ライオンズと正式契約を結び、同日入団会見を行った。 2008年は二軍で主力選手として82試合に出場し、リーグ2位の本塁打、本塁打部門と三塁打部門でチームトップ(打率.261・13本塁打・43打点・8盗塁・6三塁打)を記録するなど力を発揮。一軍試合出場は7試合に留まったが、この年唯一のスタメン出場となった9月13日の対楽天戦では4打数2安打1打点と活躍を見せた。登録は外野手であるが、チーム事情から二軍では外野以外に遊撃を除く内野の全ポジションを守り、一軍昇格後も一塁手としての出場がほとんどであった。 2009年は水田圭介がトレードされたこともあり、二軍の内野手が足りなくなってしまったので主に二塁と三塁を守った。シーズン終盤中村剛也が怪我をしたため一軍に昇格、主に三塁を守った。中村復帰後も一軍に残ったが左投手先発時もそれほど打てず、左投手が先発の時も起用されなくなってしまった。最終戦にスタメン出場し、安打も放ったが翌日の10月8日に戦力外通告を受けた。シーズン終了後、12球団合同トライアウトに参加するも、獲得する球団は現れず現役を引退。 現役引退の挨拶のために母校の浦和学院高等学校を訪問した際、森士監督の「教職取って、ウチ来るか」という言葉をきっかけに指導者になる決心をする。その後、運送会社で働きながら東洋大学(夜間)に2年間通学し、2012年3月に教員免許を取得。2012年4月から浦和学院高校で教員として勤務している。 これまで元プロ野球選手が高校野球の指導者になるには2年以上の教員経験が必要だったが、研修を受講することなどを条件にこの規則が撤廃された。この規則緩和により2013年7月29日に学生野球資格回復が承認〔元プロ三浦氏、石川氏が資格回復 新プロアマ規則で初 スポニチ (2013年7月29日)〕されたため、2013年7月30日から浦和学院高校野球部でコーチをしている。石川賢とともに規則緩和の新制度適用第1号となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦貴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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