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三浦道寸 : ウィキペディア日本語版
三浦義同[みうら よしあつ]

三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。東相模の小大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。
北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主である。
== 生涯 ==

=== 三浦氏の内紛 ===
扇谷上杉家から、新井城三崎城とも)主・三浦時高養子に入る(先に義同の実父・上杉高救が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に実子・高教が生まれたため不和となり、初め山内上杉家上杉顕定次いで祖父・大森氏頼を頼ったが、大森氏領内の足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号す(一説には義同の実父・高救とその実兄で扇谷上杉家を継承した定正との不和によって、定正に忠誠を誓っていた時高が義同を実家に送り返したとする説もある)。
そのため三浦氏の被官は両派に分裂してしまう。明応3年(1494年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職(後に守護、時期不明)を手に入れた。その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現平塚市)に拠った。
ただし、この内紛について、近年では義同が養父・時高を攻め滅ぼしたとするような大規模な軍事的内乱の発生を否定して、時高死後の三浦家中の混乱に乗じて義同が三浦氏に復帰し、その家督を奪ったとする考えもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三浦義同」の詳細全文を読む



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