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大清皇帝功徳碑(だいしんこうていこうとくひ、 転写:Daicing gurun i Enduringge Han i gung erdemui bei、大清国之聖汗之功徳之碑)は、大韓民国のソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ、サムジョンドビ、、Samjeondo-bi)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。大韓民国指定史跡第101号である。地下鉄の最寄り駅は蚕室駅である。 碑の満州語以外の名称は以下である。 * モンゴル語: * 中国語: Dàqīng huángdì gōngdé bēi() == 経緯 == 李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興、李氏朝鮮と対峙するようになった。1627年には後金が朝鮮へ侵攻した(丁卯の役)が膠着し、両者が兄弟関係を結ぶことで講和した(丁卯約条)。しかし朝鮮では古来から同国にも朝貢に来ていた女真族を「北狄/オランケ」(野蛮人)と蔑すむ考えが多く、とりわけ保守的な儒者は後金との決戦を唱え続けるなど、火種はくすぶっていた。 後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めた。官僚派閥である北人の大北派の主張に沿って中立政策を取った前王の光海君と違い、華夷思想を重んじた西人に支持されて即位した王・仁祖にとって、永く朝貢を受ける相手であった女真族の要求は到底呑めるものではなかった。 仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への親征を行った(丙子の役)。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後40日余りで降伏し、和議が持たれた。講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(三田渡の盟約)。 ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。 その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮が離脱したのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、地中に埋められた。しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)にも「恥さらしだ」との理由で李承晩の指示によって再び埋められたり、と何度か滅出を繰り返した後、大韓民国指定史跡第101号(1957年2月1日)に指定された。1963年に洪水で流されたが、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3()に復元された。「朝鮮の屈辱の象徴」として、移転の願いなどがされた〔朝鮮日報 - 中国に仕返し? 三田渡碑にスプレーで落書き 〕〔朝鮮日報 - 「屈辱の石碑」の移転を願う周辺住民(上) 〕〔朝鮮日報 - 「屈辱の石碑」の移転を願う周辺住民(下) 〕。 2007年2月3日午後9時40分頃に、赤い字で「철」(撤)「거」(去)「병자」(丙子)「370」(丙子の役から370年という意味)と落書きされ、同27日に犯人ペク某氏(39)が逮捕された。ペク氏は1月にも甲午農民戦争の原因となった古阜郡主のの碑も破壊していた。政治家が誤れば恥辱の歴史を繰り返すと警告しようとした〔삼전도비 훼손 30대 검거 “정치인 잘못 경고하려” 三田渡碑毀損30代検挙“政治家に過ちを警告しようと” 京郷新聞 2007年2月27日 〕、為政者たちが見て学ぶように青瓦台に移転しなければならない、と主張した。6月15日に碑の修復が完成した〔 삼전도비 복원을 바라보며 三伝渡碑復元を眺めて ソウル東部新聞 2007年6月20日〕。 2008年、この石碑は、原位置の考証を行い、ロッテワールドのビルの裏手、松坡区蚕室洞47番地の石村湖水西湖の北東側にある緑地帯()へ移されることが文化財庁により決定された。〔松坡区文化体育課 〕石碑の横に建てられていた仁祖が降伏する光景(ホンタイジの前において土下座している描写)の銅板は、1983年に作られたもので文化財的な価値はないとの理由により、文化財委員会の判断に基づき撤去されることとなった〔2008年6月15日 朝鮮日報 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大清皇帝功徳碑」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Samjeondo Monument 」があります。 スポンサード リンク
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