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三韓征伐[さんかんせいばつ] 三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。 ==概要==
日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅が倭の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。 紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している〔。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる〔 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁〕。井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている〔。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三韓征伐」の詳細全文を読む
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