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上与那原寛和[うえよなばる ひろかず]
上与那原 寛和(うえよなばる ひろかず、 1971年3月22日〔profile 〕 - )は、沖縄県沖縄市出身の車いすレース選手。 ==経歴== 建設会社に務めていた2000年にバイクに乗って帰宅していた途中に乗用車と接触し跳ね飛ばされ首を骨折し頸椎を損傷、足が動かなくなり、手にも麻痺が残った〔同一個夢想:ひとつの夢・北京パラリンピック 陸上男子・上与那原寛和選手 〕。 その後は知人に誘われてリハビリとして車いすマラソンに誘われて参加。2003年には初の大会となる、ぎのわん車いすマラソン大会に出場。2006年には大分国際車いすマラソンのハーフマラソン部門で優勝を果たし、大会新記録を樹立。2007年の長野車いすマラソン大会のハーフマラソンでは日本記録を更新し、同年の大分国際車いすマラソン大会のフルマラソンでも当時の日本記録を樹立した。2008年の長野車いすマラソン大会ではハーフマラソンの日本記録をさらに更新し、日本パラリンピック委員会より北京パラリンピックへの出場が内定した〔北京パラリンピック日本代表沖縄県選手を支援する会 〕。 北京オリンピックでは200m、400m、800m、マラソンに出場しており、200m、400mで6位、800mでは自己ベストを5秒記録する走りだったものの4位でメダルには届かなかった(この種目の金メダリストは伊藤智也、銀メダリストは高田稔浩でともに日本の選手であった)。しかし最後の種目となったマラソンでは40キロ過ぎよりスパートをかけて1時間40分10秒の世界記録を3分半ほど更新する記録であったが、オーストリアのトーマス・ガイアシュペヘラーにわずか3秒及ばずに銀メダルを獲得した〔上与那原(車いすマラソン)が銀メダルの快挙 〕。帰国後には仲井眞弘多沖縄県知事より県民栄誉賞を授与された。沖縄県民名誉賞が授与されたのは1999年に沖縄尚学高等学校が第71回選抜高等学校野球大会で沖縄県勢初となる優勝を果たして送られて以来の2度目であった〔「県民に希望と活力」 上与那原選手に県民栄誉賞 〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上与那原寛和」の詳細全文を読む
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