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上党戦役[じょうとうせんえき]
上党戦役(じょうとうせんえき)は、中国山西省上党地区(現長治市)内で1945年に発生し、日中戦争終結後国共両党間に発生した最初の軍事衝突で、1945年中の国共衝突中の一部分であり、第二次国共内戦の序曲である。この戦役は中国共産党によって開始され〔汪朝光,中华民国史,北京:中华书局,2000〕、さらに重慶交渉〔「重慶交渉」の語については、今井駿ら(1992)『世界現代史 3 中国現代史』、山川出版社、219頁 による〕と歩調を合わせた重要な軍事行動であった。この戦役で閻錫山所属の11個師の部隊がせん滅され、閻錫山は第二次国共内戦中に中国共産党の起こした攻勢に対応できず、また、これまでの独立割拠ができなくなり、山西の守備に中央軍の援助を受けなければならなくなった。 == 戦役の準備 == 1945年8月下旬、閻錫山の部隊第19軍の史沢波率いる4個師が上党地区で日本軍の投降を受け入れた。しかしこの地区はちょうど晋冀魯豫辺区(晋冀魯豫根拠地)の太行分区と太岳分区の両区間にあって孤立した状況にあり、中国共産党が日中戦争勝利後直ちに占領地区に組み入れる予定の地区の一つであった。8月26日、中国共産党中央軍事委員会は各地に配置した軍への指示で、「すべての有効な手段を用い徹底的に国民党軍を滅ぼし、敵を投降させ、上党全区を回復する。」よう、直ちに太行軍区への主力の結集を要求した。31日に再度劉伯承と鄧小平へ「閻錫山の部隊1万6千は我が長治を囲む6城を占領していて、これは身中の虫であり、断固としてこのすべてを徹底的にせん滅しなければならない。」と指示した〔中共中央文件选集,第15册第250页〕。 これに基づき、劉伯承と鄧小平は上党地区(長治地区)に作戦行動を手配した。晋冀魯豫辺区の部隊は日中戦争の後に4個野戦縦隊に編成され、上党戦役のために3個縦隊が動員された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上党戦役」の詳細全文を読む
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