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上垣内 誠(かみごうち まこと、1944年6月30日 - )は、広島市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)。 == 来歴・人物 == 広島商では、大下剛史や大倉英貴と同期であったが、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は東洋大学に進学し、外野のレギュラーとなった。東都大学リーグでは、在学中は二部リーグにとどまるが、秋季リーグ後の入替戦で一部リーグの芝工大を降し、後輩に後を託した。大学同期に前田康雄がいる。1966年のプロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツから3位指名を受けるも、諸事情で入団を拒否。 卒業後は河合楽器に入社し、都市対抗野球大会に3年連続出場、第24回JABA東京スポニチ大会で最高殊勲選手となるなど、大学時代に引き続き外野手として活躍した。1969年には社会人ベストナインに選出される。 1969年のドラフト会議で、地元チームでもある広島東洋カープから3位指名を受け、プロ入り。当初は外野を守ったが、後に三塁手に転向した。1973年と1974年には、共に100試合以上出場し、正三塁手の座を確保。ただ守備が得意なわけではなく苑田聡彦らに守備固めを任せ、外野手に回ることも多かった。 1974年オフ、奇しくも高校時代の同級生である大下剛史との交換トレードで、渋谷通と共に日本ハムファイターズへと移籍した。1975年は外野手として起用されたが、1976年には二塁手、三塁手、外野手の3つのポジションを守り、ユーティリティ・プレイヤーとして活躍。自己最高の打率.251、10本塁打を記録する。1976年6月17日の阪急ブレーブス戦で、乱闘事件の発端になった打者(竹村一義に、ウォルター・ウィリアムスに続いて2つ目の死球を当てられた)が上垣内だった。そして、1977年限りで現役を引退した。 引退後は、静岡県浜松市でスポーツ用品店を営んだ後、同市内の不動産関係の企業に勤めた。 現在は故郷・広島に戻り、バスの運転手として働いているという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上垣内誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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