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聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。 == 呼称 == 本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある〔『日本書紀』に生年は記していないが、「生れましながら能く言ふ。聖の智有り」という記述があり、出産間近の間人皇女が宮中の厩の前を通りかかったとき、突然産気づき、少しも苦しまずに安産したという。参考文献:小学館週刊『新設戦乱の日本史 第27号 蘇我・物部の決戦』〕。また、母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説や、生誕地の近辺にある厩戸という地名から名付けられたとする説もある。 別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。 聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる〔懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」〕。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録〔巻二貞観元年(859年)五月十九日甲戌条、巻八貞観6年(864年)正月十四日辛丑条、巻卅八元慶4年(880年)十月廿日庚子条など。〕』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。 713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 弓削大連 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子〔『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年/平成9年)、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター 1996年/平成8年)〕と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。 現代において一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して尊皇派が反発し批判を展開している〔小林よしのりは自身の著書「天皇論」にて「聖徳太子」という諡号をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)〕〔「厩戸王」は大山説でも使用されているが、史料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞)。〕〔ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「推古天皇」「後白河天皇」「魏の武帝」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と院号で呼ぶのが一般的であったし、長慶天皇や仲恭天皇のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「前漢」「後漢」「蜀漢」「南漢」はみな国号は「漢」である〕。2013年(平成25年)3月27日付朝日新聞によれば清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から聖徳太子虚構説をとりあげる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「聖徳太子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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