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上山城[かみのやまじょう]
上山城(かみのやまじょう)は、山形県上山市にあった日本の城である。別名、月岡城。江戸時代には上山藩の藩庁が置かれた。 ==歴史== 南北朝時代、天童頼直(最上氏の祖斯波兼頼の孫)の子上山満長が上山に配されたことに始まる。満長は上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築き居城とした〔『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)』p.66〕。永正5年(1508年)に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は逃亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。永正17年(1520年)最上義定の死去に伴う混乱に乗じて義房が兵を挙げるものの伊達稙宗と戦って討死する。天文4年(1535年)上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって天神森に改めて築城された平山城が現在の上山城である。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼と続く。この頃、天童氏は最上八楯を形成し、最上義光と対立。満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し、伊達氏とともに山形を攻めるなどした。しかし天正8年(1580年)義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死。代わって里見民部が上山城主になった。江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代は天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。 金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。 歴代藩主は上山藩に詳しいが、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.87万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が封じられた。その後明治維新まで藤井氏が当地を治め、10代(3万石)信安の代まで居城として用いた。しかし明治時代に入ると廃城令の影響で1873年より取り壊されたり、払い下げられたりして廃城となった。 城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上山城」の詳細全文を読む
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