|
上山 草人(かみやま そうじん、1884年1月30日 - 1954年7月28日)は、日本の俳優。本名は三田 貞(みた ただし)。号は半月〔美術人名辞典「上山草人」の項 〕。 坪内逍遥の文芸協会を経て、妻の山川浦路らと近代劇協会を設立して新劇俳優として活動。1919年(大正8年)に渡米してからは映画界に転向し、ダグラス・フェアバンクス主演の活劇映画『』に出演。ハリウッドで活躍した日本人俳優の一人となった。帰国後の出演作に『赤西蠣太』『七人の侍』などがある。 == 来歴 == === 新劇俳優に === 1884年(明治17年)1月30日、宮城県遠田郡涌谷町に父・上山五郎の次男として、五郎の愛人である角川浦路との間に生まれる〔: 谷崎潤一郎との交友を中心に」細江光 〕。父は産婦人科病院を経営していた医者で、宮城医学校教授を務めた。母は涌谷町の名門の医者の娘である〔が、草人が産まれてすぐに発狂したため、草人は母と引き離され、親戚の家を転々として10歳から父親宅に引き取られた。父親は厳しく、愛情薄い幼少期だった〔自伝『蛇酒』〕。生家は涌谷町の涌谷第一小学校の前庭にあり、今でもそこにあった木が残っている。 宮城県立第二中学を卒業して、1903年(明治36年)に上京。父の友人である犬養毅宅へ寄宿し、早稲田大学文科に通う〔〔『日本映画俳優全集・俳優篇』p.165-166〕。在学中はテニスに熱中した。この頃に川上音二郎に共感し、後の妻山川浦路と知り合った。 1905年(明治38年)、本郷座の新派大合同『金色夜叉』に全身を金粉で塗った夜叉役で出演、これが初舞台となった〔。 1907年(明治40年)、大学を中退して東京美術学校日本画科に入学(後に中退)〔。翌1908年(明治41年)に浦路との間に長男・平八が産まれ、3月に犬養の仲人で浦路と結婚した〔〔。同年11月、藤沢浅二郎主宰の東京俳優養成所(後に東京俳優学校)に第1期生として入所。同期には諸口十九、岩田祐吉、勝見庸太郎、田中栄三らがいる。しかし、講師の桝本清と衝突して排斥運動を起したため、1909年(明治42年)に退所させられた〔〔。その後は栗島狭衣一座に加わり、有楽座で毎週土曜日に催されるお伽芝居に出演。また、岩藤思雪が狭衣一座を使って製作した児童用映画『新桃太郎』『カチカチ山』『牛若丸』などに出演〔。お伽芝居には栗島すみ子、田口桜村、天野雉彦らも出演していた。 同年5月、坪内逍遙の起こした文芸協会演劇研究所が開設され、8月の研究生補欠募集に合格して入所した〔。妻の浦路、佐々木積、小林正子(松井須磨子)らの第1期生に加わり、上山草人を芸名とした〔。研究所時代は土肥春曙が保証人となった〔。同年12月、化粧品開発に熱心だった草人は妻と新橋で「かかしや」という化粧品店を開店〔〕、草人が考案した眉墨は人気を集めて繁盛した。 1911年(明治44年)4月、研究所を卒業し文芸協会に加入したが、7月に大阪角座の『ハムレット』公演中に配役上の不満からトラブルを起こし、夫婦ともども退会させられた〔。1912年(明治45年)5月、浦路や伊庭孝、衣川孔雀らと共に近代劇協会を結成。10月にイプセン作『ヘッダ・ガブラー』の上演で旗揚げ〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus「近代劇協会」の項 〕。翌1913年(大正2年)に森鴎外訳の『ファウスト』、9月に同訳の『マクベス』を上演し話題を呼んだ。大正時代初頭に起こった新劇ブームの一翼を担い、草人は俳優としてよりも興行主としての手腕のほうが評価された。当時7歳の夏川静江を発掘したのも草人であった。妻も芝居を始めたことで、出身校の女子学習院から除名騒ぎを起こされながらも〔〕、劇団運営を支えた。妻公認の愛人である衣川の協会脱退などで、次第に経済的に行き詰まり、根岸興行部の陰の顧問となって苦境を打開する〔ものの、1919年(大正8年)2月の『リア王』上演を最後に協会を解散した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上山草人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|