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上方下方騒動 上方下方騒動(うえがたしたがたそうどう)は、江戸時代前期に高鍋藩家老の白井種盛・種重親子の専横が発端となって発生し、40年近くもの長きに渡り続いた騒動である。 当時、白井種重(秋月氏を自称し、秋月又左衛門とも)の一派を上方(うえがた)、対立した坂田大学の一派を下方(したがた)といい、その両派の闘争のことを指していう〔『高鍋町史』高鍋町史編さん委員会、1997年、p.181 - p.182〕。 ==概要==
===白井権之助の専横=== 慶長19年(1614年)6月、初代藩主種長が病没すると、5歳の孫の種春では幼すぎて政務は行えないとして、その実父で種長の娘婿である種貞が江戸へ出向き、自らの相続権を主張したが、既に種春は将軍に拝謁しているとして却下された〔安田尚義著『高鍋藩史話』鉱脈社、1998年、p.94 - p.95〕。すると、藩主は成人するまで藩地へ下向できない決まりであるのをいいことに、家老の白井権之助種盛が自らの政敵を粛清し始める〔。 まず、種長の死去より4ヶ月後、種盛はまず種貞の附家老である坂田五郎左衛門を、藩命と偽って討ち手を放って殺害〔、次に元和2年(1616年)、その討ち手となった甥の内田吉左衛門(種盛の兄・吉左衛門の子)を、旧悪が露見したとして国光原(現・児湯郡川南町)に隠棲していたのを検使を遣わして切腹に追い遣った〔。更に翌元和3年(1617年)、種長の父種実の娘婿である板浪清左衛門長常に不義の行いありとして、高鍋藩士の約半数を動員して長常の邸を襲撃した〔長常の邸は城塞の様な構えで、このときの襲撃は城攻めのようだったと『本藩実録』(巻之三)に記される(『高鍋藩史話』 p.95)。〕〔。長常は邸に火を放って妻子と共に自害〔、その一族36名が討ち死にした〔。これに旧来よりの重臣らの病死なども重なり〔、種盛は藩の実権を掌握していった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上方下方騒動」の詳細全文を読む
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