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上杉茂憲 : ウィキペディア日本語版
上杉茂憲[うえすぎ もちのり]

上杉 茂憲(うえすぎ もちのり、1844年4月15日天保15年2月28日)- 1919年大正8年4月18日))は、出羽米沢藩の第13代(最後)の藩主。12代藩主・上杉斉憲の長男。母は於盤。正室は幸(尾張徳川家支流松平義建女)。継室は猶(竹俣権平養女)、敏(松平乗喬女)、兼(伊藤清久女)。子に上杉憲章(長男)など。官位は正二位伯爵沖縄県令貴族院伯爵議員、侍従、錦鶏間祗候の「茂」の字は将軍の徳川家茂から賜ったものである。
== 経歴 ==
斉憲の庶子であったが、生まれてまもなく嗣子として指名された。傳役は樋口伊織や松本彦左衛門が勤める。1860年万延元年)10月に従四位下侍従に叙任。
1868年慶応4年/明治元年)、戊辰戦争が始まると、父と共に奥羽越列藩同盟に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。このとき、父が処罰として藩主の地位を退くことを余儀なくされたため、同年12月18日に家督を継いだ。しかし藩の実権は父が掌握しており、茂憲には活躍の場がほとんど無かった。江戸や京都から長文の報告書を送り、これに斉憲が朱筆の書き込みを入れて返している。このような形で父から政治教育を受けた。
1869年(明治2年)、版籍奉還により米沢藩知事となる。旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから十万両余を分与(後の米沢義社、現在は山形銀行と合併)。1871年(明治4年)の廃藩置県により東京に移住した。その後、イギリスに自費で留学し、帰国後の1881年(明治14年)5月には沖縄県令となる。
沖縄県令への赴任に当たって書記官として補佐したのは旧臣の池田成章池田成彬の父)で、在任中の施策には成章の具申の影響も大きい。県の現況を把握するため、当時の交通事情の中ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている(島嶼間は汽船であったが、陸路は江戸時代に同じ駕籠での移動であった)。視察時の記録をまとめた『上杉県令巡回日誌』は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る上での重要な史料である。産業発展には人材育成が要として、1882年謝花昇太田朝敷ら5人の第1回県費留学生を東京に留学させた。各学校への私費での奨学金や文具の寄付も数多い。沖縄県は旧王族、士族層の不満を抑える目的で琉球時代からの旧慣温存が政府方針となっていた(清国との琉球帰属問題が完全に解決するのは日清戦争後である)。本島視察で、士族である地方役人の怠慢と恣意的な税徴収で私服を肥やす姿を目の当たりにして、これを打破するため上京し上申書を提出した。政府方針に反し急進的過ぎるとして黙殺されたが、その熱意が政府高官の一部を動かし、尾崎三良が政府視察官として派遣される。東京からの帰沖時には、沖縄のために永住も覚悟して妻子を伴っていた。尾崎三良は、茂憲の離島視察に同行した後に帰京して報告するが、それは「上杉県令が民心を惑わしている」というものだった。こうして在職2年で県令を解任される。離任時には1500円〔沖縄県の資料・出版物では1500円と3000円の2説があって定まっていない。ただし離任後に賞勲局より、「県への1500円寄付」についての褒状が贈られている。伊波普猷は回想録で、上杉県令の寄付金「1500円」を校長が無駄にしたことを、中学でのストライキのきっかけの一つと記している。なお、県令の月俸は200円であった。〕の私財を奨学資金として県に提供した。このとき夫人は妊娠中であり、沖縄で出産後に帰京したが、生まれた娘を琉と名づけている。
池田成章の回想録『過越方の記』では、茂憲の沖縄県令内示に当って、成章が岩倉具視自邸に呼び出された。「廟議で上杉氏に決定したが、名家子弟で実務に慣熟しているとは思えず、一人で任せることは出来ない」と、成章が補佐することを条件として認可すること、それは成章の意志に任せると言われたという。ここで、「大命が下されれば謹んで奉戴する」と答えている。維新の激動を渡りきった政府要人は、旧大名のほとんどを無能と見なしていたということでもある。それでも旧諸侯を県令に選んだのは、門地を重んじる沖縄県民の民心をふまえ、名家の権威を利用する飾りとしてであった。また、この場合のように、大名家にいまだ仕える旧家臣達の能力をあてにもしている。県令としての態度は精励そのもので、地方視察には熱心に質問を続け、直接住民の家を訪ねて聞き取りを行い、休日も休まず那覇裁判所の法律刑法勉強会に参加した。成章も茂憲に敬服し、沖縄県政の改革に熱意を傾けた。また、前任者の鍋島直彬には県政の教えを乞い、県令離任後も在職中の県政報告書を送っている。縁戚の浅野長勲から、開拓使官有物払下げ事件で荒れる政局の収拾に助力を求められるなど、旧諸侯からの人望が厚かった。
明治の政治家に求められた個人的な実務能力の持ち主ではなく、その徳と見識で、部下が全力を発揮できる環境を整える、江戸時代的名君であったといえる。
1883年(明治16年)には元老院議官、翌年には伯爵となった。1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第2195号、明治23年10月22日。〕。
1896年(明治29年)には米沢に移住し、米沢の養蚕製糸織物の改良に尽力した。米沢や沖縄での投資、奨学金には私財を惜しまなかったが、家計は潤沢とはいえなかった。宮中での参賀や観桜会には夫人を伴うのが礼儀であったが、婦人用大礼服は大変に高額であり会費・交際費も大きく、費用を捻出することができずに招待を断り続けていた。多年の欠礼でついに決意して、1902年(明治35年)の新年参内にあわせ夫人礼装をしつらえた。日本橋白木屋洋服店の領収書には1028円81銭とあり、同家服飾費の2年半分である。兼夫人は終生これ一着で済ましている。
1919年(大正8年)4月18日、死去した。享年76。法号は憲徳院殿権大僧都法印敬心。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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