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上杉遺民一揆 : ウィキペディア日本語版
上杉遺民一揆[うえすぎのこたみいっき]


上杉遺民一揆(上杉棄民一揆)は、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いに関連して越後国で行なわれた、主に堀氏(東軍)と、上杉景勝(西軍)の軍および影響下にある在地勢力との戦闘。
== 前哨 ==
豊臣秀吉の死後、政情不安な状態の中、五大老のひとり上杉景勝は慶長4年(1599年)、伏見から領国会津へ帰国。家老の直江兼続に命じて新規に神指城を築城し始め、砦、道を修復し、峠を要塞化した。また武器、米を買い、前田慶次郎上泉泰綱小幡将監山上道及らをはじめとする浪人を多数雇った。
隣国であり、上杉氏の旧領であった越後を当時領していた堀秀治はこれらの実情を五大老の徳川家康に報告した〔木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)278頁〕。
慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から逃奔する〔木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)278頁〕。
4月1日、家康は家臣伊奈昭綱五奉行増田長盛の家臣河村長門を使者として会津に送り、景勝の上洛ないしは弁明の使者を送るように催促した。対する上杉方の返答は、上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌宛に5月3日に届いた。有名な直江状である。同文中では「内府様又は中納言(徳川秀忠)様、御下向の由に候間、万端、御下向次第に仕る可く候」と宣戦布告とも取れる言を発している。また、同文中で越後への野心について「久太郎(秀治)ふみつぶし候に、何の手間入り申すべきや。橋架けるにいたらず、」と、堀家を侮辱しているが〔木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)282頁〕、現存している直江状は後世に大幅に改竄された可能性が指摘されている〔宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)〕〔宮本義己「直江状研究諸説の修正と新知見」(『大日光』82号、2012年)〕。
直江状が届いた即日、家康は上杉攻めを決定。諸大名に命じ、上杉討伐の軍を組織した。秀治にも「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送った。これについて堀家では意見が割れた。堀直寄は「太閤豊臣秀吉)の恩に報いるため上杉と組むべき」と主張し、直政は「秀吉のみの恩ではなく、そもそも(堀家は)信長公の御恩から起こったのだから、秀吉の恩だけを強く感じる必要はない」と主張し、加えて「家康方の勝利は確実なので、堀家のためには家康方」と主張したことにより、堀家は家康方につくこととなり、戦争の準備を始めた。
6月2日に出陣を命じられた諸大名の内、越後の津川口から会津へ侵攻する担当とされたのは、加賀前田利長、越後の堀秀治と堀家の与力大名である溝口秀勝村上義明らであった〔木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)300頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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