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上松耕一 : ウィキペディア日本語版
陳耕元[ちんこうもと]

陳 耕元1905年10月20日 - 1958年)、日本名上松 耕一(あげまつ こういち)。台湾原住民プユマ族出身で、嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の野球チーム選手として甲子園に出場した。〔#台湾紀行370-381p 〕後に台東農校(現国立台東専科学校)校長。
==生涯==
陳耕元は1921年大正十年)就讀卑南公学校(現在の南王小学校)に進学。1925年(大正十四年)台東公学校(現台東大学付属実験小学)高等科在籍時に野球部へ勧誘される。嘉義農林学校進学時も野球部へ入り、1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会に史上最年長(27歳)で参加。凖優勝となった。
1932年に日本へ留学し、横浜商業専門学校(現横浜市立大学)に進学。1935年に卒業後台湾へ戻り、嘉義自動車会社(現嘉義客運)に就職する。その後、母校嘉義農林学校で教師と野球部コーチを務める。
1943年に蔡昭昭と嘉義神社で結婚式を挙げる。〔蔡昭昭は雲林北港(現在の雲林県北港鎮)の大地主家庭の出身である〔《KANO上松耕一 慧眼識楊傳廣》,今日新聞網,2014年3月23日 〕。
第二次世界大戦終息後、故郷の台東に戻り、はじめ台東糖廠に務め、その後台東農校の教師となる,1947年に校長となり〔《歷任校長》,國立臺東專科學校官網 〕,台湾東部地区で野球を広く推進するも、1958年交通事故によって死去する。〔《東部棒球傳教者—陳耕元》,國立嘉義大學官網

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「陳耕元」の詳細全文を読む



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