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上條勉 : ウィキペディア日本語版
上條勉[かみじょう つとむ]

上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。
==生涯==

===生い立ち===

日露戦争終結間近の、1905年(明治38年)7月20日、長野県松本市北深志東ノ丁に警察署勤務の上條亀十郎の三男として誕生した。2年前にライト兄弟が動力飛行に成功している。1906年(明治39年)から、父亀十郎は浅野総一郎が経営していた茨城県真壁町の浅野石材部(浅野石材工業株式会社〔1889年(明治22年)から真壁町で採石した花崗岩を東京へ搬出していた。長秋雄「筑波花こう岩と旧筑波町の歴史」地質調査総合センター〕)勤務になった〔新田純子『九転十起の男』235頁〕。その間1908年(明治41年)に母美登を亡くしている。1910年(明治43年)に父が東京の浅野邸で相談役兼警備員として働くことになり、の伊皿子の長屋、次いで三田札の辻の浅野邸前の大通り〔東海道で、柳並木の間に所々瓦斯燈が立っていて、石畳の電車道には扉のない路面電車が走り、車道には馬車、荷馬車、人力車が走っていた。土手の上を走る東海道線はSLで煙突やドームが金色に輝いていた。上條勉『大空への道』20-21頁〕を隔てた品川寄りにあった、浅野所有の西洋館に住んだ〔『五島慶太の追想』435頁〕。浅野邸の左手に紫雲閣〔外国の賓客に日本文化を紹介するために、浅野が明治42年に建てた民間の迎賓館で川合玉堂の襖絵や小堀鞆音の天井画、襖絵が描かれていた。「紫雲閣 明治中期の名建築」浅野総一郎 記念会〕があり、関係会社の客や東洋汽船の一等船客を招いて各種の宴会が盛大に催されていた。
勉が初めて飛行機が飛ぶのを見たのは、ライト兄弟の飛行から8年目の1911年(明治44年)の芝浦での飛行だった。「使われた飛行機はライト兄弟の作った飛行機と大差のない複葉機のものだったが、4-5メートルの高度に上って、50メートルも飛ばないうちに、田の中に落ちて、観衆は失望して帰った。」〔上條勉『大空への道』23頁〕当時芝浦埋立地では奈良原三次一団の興行飛行が開催されていた〔『日本航空史 明治大正偏』62頁〕。
1912年(明治45年)に聖坂小学校に入学した。7月30日に明治天皇が崩御し、9月13日に青山葬場殿〔青山練兵場(現・明治神宮外苑)に設けられた。〕で大葬が執り行われ、勉は父に伴なわれて帝国劇場前に敷かれた小石の上に座して、弔砲とともに皇居を出発した牛に引かれた轜車を拝した。大葬日からわずか13日目に父が亡くなった。父亡き後、一家離散となり姉や兄の所を転々とした後、父の姉の水崎はつ夫妻に預けられることになった。伯母夫妻は高島易断の総本家・高島嘉右衛門の屋敷があった、高島山の裏手に住んでいた。高島山からは横浜港が一望のもとに見渡せた。伯母の長男は当時同志社大学経済学部教授をしていた水崎基一だった〔上條勉『大空への道』29-30頁〕。隣に、第二横浜中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)や厚木高等女学校(現・神奈川県立厚木東高等学校)で歴史の教師をしていた高宮昇〔水崎基一が浅野綜合中学校の初代校長になると、浅野綜合中学校に招かれた。〕が住んでいて、長男で後に経営学者になり、東京帝国大学教授、産業能率大学学長を歴任した高宮晋とは幼友達だった〔高宮晋「上條勉さんの憶出」『大空への道』157-158頁〕。1918年(大正7年)に青木小学校を卒業した。
同年4月、同志社中学校に入学し、下鴨にあった従兄の水崎の家から通った。当時5年生だった近藤賢二の長男・進一郎とは同室だった。厳格なキリスト教の学校で、毎朝7時にチャペルで聖書朗読、讃美歌合唱、説教、祈りが45分程行われ、8時から正規の授業が始まった。日曜日には水崎の家で子どものための日曜学校が開かれ、同志社大学経済学部在学中の大中寅二がタクトを振り讃美歌を合唱した。同志社紛争で、1919年(大正8年)3月に水崎一家が京都を去り、東神奈川の渡辺山に移住したため〔年譜『故水崎基一先生 追悼』4頁〕、勉はもとの高島山裏の伯母の家に戻った。学校を自分で探し、旧制荏原中学校(現・日体荏原高等学校)に1学期通い、2学期からは第二横浜中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)に転校した。
中学4年を終えた後、1923年(大正12年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)の機械工学科に進学した〔年譜『大空への道』235頁〕。大正デモクラシーの風潮の下、「名教自然」〔すぐれた教育研究は自然を尊ぶ、つまり学問は強制されるものでなく、自らの意志で自発的に学ぶものであるという自学自発の教育主義「横浜国立大学 理工学部 電子情報システム教育プログラム」〕を唱え、無試験、無採点、無賞罰の三無主義の自由教育を実践した初代校長の鈴木達治(煙洲)は同志社出身で水崎の友人だった。勉はいつの間にか人を話の中に引き込んで魅了する鈴木校長の名演説を何度も聴く機会に恵まれた。1年目の夏休み中、9月1日に松本で兄と浅間温泉に入っていた時、正午近くに激しい揺れを感じた。相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の関東大震災である。7日に上京を許され、中央本線新宿に着くと、一面の焼野原だった。新宿から先は歩くことになったが、横浜も平地は見渡す限り灰と化していた。横浜高工も全焼して名古屋の学校との合併説も出たが、鈴木校長の意気と政治的手腕で、秋にはバラックで授業が再開した。2・3学年で機械工学の専門学科を選んだ。機械工学科の科長は東京高等工業学校(現・東京工業大学)からドレスデン工業大学及びマサチューセッツ工科大学MIT)に留学した遠藤政直教授〔「日本人と日系人-日本ボストン会」表1に1918年にMITに留学、水力学の大家で上條勉の先生との記述がある。〕で、英文の書物を用いて講義やディスカッションをする教え方をした。
1926年(大正15年)に横浜高工を卒業し、渡米して航空機の勉強をする準備のため、隣の神奈川県立商工実習学校〔横浜高工の姉妹校で鈴木達治が校長を兼務〕機械科の教諭になり、夜は横浜市立横浜工業専修学校(現・横浜市立横浜総合高等学校)〔横浜高工の夜学で鈴木達治が校長を兼務〕で講義をした〔金子猛夫「故上條勉氏の追憶」『大空への旅』161頁〕。伯母が渡辺山の息子の水崎の家に移ったため、勉もそこから通った。在職中、夜に神田の語学学校に通い、英語とドイツ語を勉強した。日曜日には英会話を習うため、水崎の甥の三輪武久〔英語を得意とし、早稲田大学卒業後、ミシガン大学に留学した時、勉と下宿で机を向い合せて夜遅くまで勉強した。浅野綜合中学校で勤務後、同盟通信社欧米部長、『時事英語通信』編集長を歴任した。上條勉『大空への道』81頁〕の手引きで指ヶ谷町〔さしがや、現在の文京区白山〕の福音教会に属していたバイブル・クラスに通い、米国人宣教師ミス・モーク及びミス・ハツラー〔Verna S.Hertler、1911年(明治44年)に横浜に上陸、キリスト教の伝道に尽くし、勲四等の叙勲を受けている。伝記『恩寵の奇蹟』、『日本への私の使命』の著作がある。石川久能「竹内先生と私」横浜国立大学 117-118頁〕から聖書を中心とした話を聞き、ミス・ハツラーから洗礼を受けた〔「別離」『大空への道』231頁〕。後に勉の紹介で、ミス・ハツラーは横浜高工で英文学の竹内秀雄教授が指導していたESS(英会話クラス)にバイブル・クラスを開いている。米国に帰国してからも、戦前、戦中、戦後を通じて、勉ら教え子たちを「my boy(私の坊や)」と呼んで、文通を続けた〔石川久能「竹内先生と私」横浜国立大学 117-118頁、石川久能「上條先生とミス・ハツラー」『大空への道』追録1-2頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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