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「上海南駅の赤ん坊」とは、第二次上海事変中の1937年8月28日に日本軍に爆撃された上海南駅〔2012年現在存在する上海南駅とは別の駅で、この空襲を含む戦乱によって使用中止となった。〕で王小亭によって撮影された、傷つき泣き叫ぶ赤ん坊のモノクロ写真である〔井上祐子『戦時グラフ雑誌の宣伝戦: 十五年戦争下の「日本」イメージ』青弓社、2009年、116頁〕〔白山眞理、堀宜雄『名取洋之助と日本工房 』岩波書店、2006年、48頁〕〔文・構成: 石川 保昌、写真: 小柳 次一『従軍カメラマンの戦争』新潮社、平成5年8月5日、ISBN4-10-39360-0、142頁〕。『ライフ』誌の1937年10月4日号に「1億3600万人が見た海外の写真」として掲載された〔。アメリカの世論に大きな影響を与えた一方で当時から演出写真ではないかとの疑惑が出されるなど論争にもなっている。 この写真は"Motherless Chinese Baby" (「母を亡くした中国の赤ん坊」)、"Chinese Baby"(「中国の赤ん坊」)、"The Baby in the Shanghai Railroad Station" (「上海鉄道駅の赤ん坊」)などとも呼ばれる。赤ん坊の名前、性別は不明のままである。 ==撮影者・王小亭の証言== 第二次上海事変で、ハースト支局長のジャーナリスト王小亭や他の映像ジャーナリスト(ハリソン・フォーマンやジョージ・クライニュコフなど)は、戦争の惨状をカメラに収めていた。王はアイモで報道映像を撮り、ライカで写真を撮影していた。 1937年の8月28日の午後2時に大日本帝国海軍が上海を空爆する予定である、との情報を知った王らジャーナリスト達は、空襲を映像に収めるためにスワイヤーのビルに集まった。 午後3時、飛行機が来る様子がなかったので王を除くジャーナリストは撤退した。午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した〔。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。 「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていましいた。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」〔。 やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである〔。翌朝、王は''チャイナ・プレス''にフィルムを持っていき、写真を引き伸ばしてマルコム・ロスホルトに、見るよう要請した〔。彼は「翌朝の新聞が、上海南駅のプラットホームには内陸部への避難を待つ約1800人がおり、そのほとんどが女子供だったこと、日本の飛行士たちがそれを部隊の移動と勘違いしたと報道した」と語った。生き残った人は300人に満たないという〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上海南駅の赤ん坊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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