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上田五千石 : ウィキペディア日本語版
上田五千石[うえだ ごせんごく]
上田 五千石(うえだ ごせんごく、1933年10月24日 - 1997年9月2日)は、東京都出身の俳人秋元不死男に師事。「畦」創刊主宰。本名は明男。
== 生涯 ==
東京都渋谷区生まれ。法相宗東京出張所長の三男。この父は古笠(こりゅう)の号を持つ俳人で、五千石も幼少時より父と兄から俳句を教わった。幼時は代々木上原で満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時長野県疎開。その後、山梨県静岡県富士市に転居。その間、1945年に東京の自宅を空襲で失った。1947年、静岡県立富士中学校(翌年静岡県立富士高等学校となる)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わる。そこで発表した加島五千石を詠んだ句「青嵐渡るや加島五千石」が校内で評判となったことから「五千石」を俳号とした〔明男少年はこの句を携えて富士山本宮浅間大社で開かれた水原秋桜子の俳句会に挑んだが、無点に終わった。しかし父は大人の句会に挑んだ息子の勇気を讃え、この句を「天下の秋桜子の目をくぐった句」と称して、これを機に俳号を五千石とするように言ったのだという。(しなだしん上田五千石の句 」 『戦後俳句を読む(第5回の1) ― テーマ:「風土」その他 ―』 詩客、2011年06月24日(2014年6月1日閲覧))〕。
1953年、上智大学文学部新聞学科に入学。1954年、極度の神経症に悩むが、同年秋元不死男に師事、「氷海」に入会してのち快癒した。在学中は「子午線」や関東学生俳句連盟にも参加。有馬朗人深見けん二寺山修司といった俳人と交流し「天狼」にも投句した。1956年、22歳で「氷海」同人。1957年、大学を卒業。卒論の「新聞俳壇の発生」は、西東三鬼の推薦で角川書店『俳句』に要約が掲載された。同年堀井春一郎鷹羽狩行らと「氷海新人会」結成。俳句専念のためマスコミへの就職は断念し、父の発明した温灸「上田テルミン」製造販売・施療の経営に携わる。また鍼灸学校に三年間通学し資格を取得〔本宮鼎三編 「上田五千石略年譜」 『上田五千石』 春陽堂俳句文庫、1993年、189-191頁。〕。
1968年、句集『田園』により第8回俳人協会賞を受賞。1973年「畦」を創刊・主宰。1997年9月2日、解離性動脈瘤により杏林大学付属病院にて死去。63歳。「畦」は同年12月号にて終刊し、翌年に娘の上田日差子により新たに「ランブル」が創刊された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「上田五千石」の詳細全文を読む



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