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上田 清司(うえだ きよし、1948年(昭和23年)5月15日 - )は、日本の政治家。埼玉県知事(4期)、内閣府地域主権戦略会議議員。元衆議院議員(3期)。 == 来歴 == 福岡県福岡市生まれ、大牟田市育ち。福岡県立三池高等学校、法政大学法学部法律学科卒業。大学では当初旧司法試験合格をめざしたが、断念〔上田清司は法政大学弁論部OB会などで司法試験を断念した経緯を、隠すことなく何度も語っている〕。後、法政大学弁論部に所属し活動に励んだ。大学卒業後は早稲田大学大学院政治学研究科へ進学。大学院在学中に埼玉県所沢市で学習塾「向陽塾」を開業。また、これも大学院在学中の1976年(昭和51年)、新自由クラブの立党に参画する。1977年(昭和52年)、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。その後1979年(昭和54年)から1986年(昭和61年)まで建設大学校(現・国土交通大学校)の非常勤講師を務める〔埼玉県知事選挙初当選直後の2003年(平成15年)9月、週刊新潮が上田の「建設大学校講師」という経歴について、「上田は建設大学校の分校の研修所で講師を務めていたものであり、東京都小平市の建設大学校本校の講師であったかのように経歴を詐称している」と報道した。これに対し上田本人が反応する前に建設大学校が反論した。同大学校は「建設大学校の講師はすべて「建設大学校講師」として建設省によって採用され、担当授業・職務によって本校や分校、研修所等に配属されるものであって、「本校講師」「分校講師」のような肩書きや待遇の差はもとより存在しない。全員「建設大学校講師」であり週刊誌報道は誤り」との見解を発表した。上田も「建設大学校の説明の通り」とのみ述べた。週刊誌は記事を取り消し、謝罪文を掲載している〕 1980年(昭和55年)、第36回衆議院議員総選挙に新自由クラブ公認で出馬するが、落選する。以後、3度の落選を経験する。新自由クラブ解党後は自民党に入党。自民党籍を有しながらも自由連合に参加し、代表に就任する。 1993年(平成5年)に自民党を離党し、結党されたばかりの新生党の公認を受けて第40回衆議院議員総選挙に旧埼玉県第5区から出馬し、初当選を果たした。なお同区では、のちに共に民主党に所属する枝野幸男も日本新党公認新党さきがけ推薦で初当選している。翌1994年(平成6年)、新生党解党により新進党結党に参加する。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には埼玉県第4区から出馬し、自民党の早川忠孝を破り再選する。 1997年(平成9年)、同年末の新進党解党に先駆けて、細川護煕元首相を含む5人で新進党を離党し、細川を党首にフロム・ファイブを結党する。翌1998年(平成10年)、国民の声、太陽党、フロム・ファイブの3党が合併し民政党が結成され、民政党の旧民主党への合流により、民主党が結党した。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙には民主党公認で出馬し、自民党の早川忠孝を再度下し、3選。 2003年(平成15年)8月、埼玉県知事選挙に無所属での出馬を表明し、衆議院議員を辞職する。自民党県連が推薦する候補者など7人を破り、当選した。 2007年(平成19年)8月の埼玉県知事選で、吉川春子らを破り、再選。 2011年(平成23年)、全国知事会会長選挙に出馬し22票を獲得するも、25票を獲得した京都府知事の山田啓二に敗れた。 同年7月の埼玉県知事選で、埼玉県労働者福祉共済会(埼労共)理事長の原冨悟、元埼玉県立高校英語教諭の武田信弘を破り、3選を果たしたが、投票率は全国の都道府県知事選挙の中で史上最低の24.89%であった〔埼玉知事に上田氏3選…投票率は知事選史上最低 読売新聞2011年7月31日、’11埼玉知事選:上田氏、手堅く3選 投票率、全国ワースト1 /埼玉 毎日新聞2011年8月1日、「埼玉から夢」発信 知事選で上田氏3選 埼玉新聞2011年8月1日〕。 2015年(平成27年)、同年8月の埼玉県知事選で、元総務省消防庁審議官の塚田桂祐、埼玉県労働組合連合会議長の柴田泰彦、元米菓製造販売会社社長の石川英行、元埼玉県立高校英語教諭の武田信弘を破り、4選を果たした。なお、自身で1期目の2004年に施行した「多選自粛条例」を破る形での立候補であった〔多選自粛条例「実効性ない」上田知事が改廃意向 読売新聞2015年8月10日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上田清司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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